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謎の切支丹武将の隠棲伝説

大坂の陣で秀頼を守った五人衆とは、真田信繁、後藤基次、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登である。敗者の最期は、真田と後藤が討死、毛利は秀頼介錯後に自害、長宗我部は捕縛後に斬首であった。ただ明石全登、通称掃部(かもん)のみ逃亡に成功したという。どこへ行ったのだろうか。この謎がキリシタン大名明石掃部の魅力である。

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瀬戸内市邑久町虫明に「明石掃部助墓」がある。写真左の墓には、そのように刻まれているように見える。

掃部寮は宮中行事の設営、清掃を掌る役所で、長官(かみ)は頭、次官(すけ)は助と書いた。名目上の官職としては幕末まで存続し、有名な井伊直弼は掃部頭であった。掃部ベイビーアメリカとはこのことである。いっぽう明石全登は、掃部助と名乗った。

掃部の居城は「南蛮に消えた武将と幻の城」で紹介した。大坂落城後に南蛮へと渡ったという噂があったようだが、真相はこうだ。寛政年間成立の『吉備温故秘録』巻之四十三「墳墓」邑久郡では、この墓について次のように記されている。

明石掃部墓 虫明村。
伊木家の采地、虫明に在り。今は同家の家臣(森寺・寺澤氏)の宅地内なり。掃部大坂落城後、所々流浪し、時去りて本国なれば、当国へ帰り、虫明村に居住して終りしと云。今に当村の属村鶴見村の民間に、子孫残れり。又、伊木家の臣にも子孫残り、氏を改めて横山氏となる。
按ずるに、和気郡小坂(※板の誤り)屋村にも、掃部が墓あり、何れが是なる事をしらず。

和気郡小板屋村は今の備前市吉永町今崎。この地からのレポート「キリシタン武将は何処へ」で、掃部屋敷跡を紹介したことがある。浦上氏そして宇喜多氏に仕えたのだから、備前国内の各地に足跡や伝説があって不思議ではない。逃亡後に隠れ住むのなら、土地勘がある場所がいいだろう。

『吉備温故秘録』から少し時代を下って、天保頃成立の『東備郡村志』裳掛荘【蟲明邑】には、次のように記されている。

明石掃部助墓。寛政の初土中より堀出せり。慕面に厳然と明石掃部墓と彫れり。

土の中から出てきたという。ならば、なぜ埋められたのか。ますます謎めいて感じられる。おそらく徳川の世を憚ってのことだろうが、寛政の頃以降は問題にならなかったのだろうか。

明石掃部。全国的にその名が知られ、少々エキゾチックなイメージを纏う魅力ある武将だ。信憑性がどこまであるのか分からないが、江戸時代以来の伝説をこの墓をよすがに語り伝えていくことは、虫明の魅力化推進につながるだろう。


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