山城の見どころは本来、敵の動きを察知する眺望であるはずだが、木々の生い茂った現状では期待できない。それでも敵の侵入を防ぐために築かれた防御施設は、いまでも痕跡を確認することができる。
山の頂上を均し、尾根を断ち切り、斜面にさらに傾斜を加え、防御に適した起伏を付ける。こうして自然の山は、山城となるのだ。お薦めは、堀切なら猿掛城、井戸なら金川城、横堀なら淡相城、畝状竪堀群なら篠向城、そして連続堀切なら本日紹介するこの城である。搦手となる西尾根から進入しよう。まずはこの堀切。
2本目。
3本目。
4本目
5本目。その先は崖が立ちはだかる。
井原市高屋町に「高屋城跡」がある。
5条の連続堀切は、巨大な爪が大地を掻き毟ったかのようだ。
崖を登って主郭へと進むと井戸がある。眺望はよくないが、木々がなければ広島県道・岡山県道103号七曲井原線が見通せるだろう。この道はかつての石州街道だという。
井戸の向こう、北斜面から回り込んでくる敵の移動を制御するため、畝状竪堀群が造られている。
私は二度この城跡に登った。搦手から進入したのは二度目だが、初めは南側の斜面をよじ登った。数メートル進むのにどれほどの体力を要したことか。寄手が攻める場所ではない。
この堅固な城は、どのような武将が守っていたのだろうか。昭和39年『井原市史』には、次のように記されている。
高屋山城は石州街道と山陽街道の交叉点に近い要点であり、戦略的価値が高い。尼子党に属する芳井町沢岡の正霊山城主藤井能登守皓玄(諱は好元)は当時井原後月地方切っての土豪であり、その一族河合豊前守行重(芳井町川相の中山城主)と並んでこの地方を支配していた。能登守はその長子で剛勇を謳われた広吉に高屋山城を守らせている。
河合行重の中山城については、以前の記事「河合氏が築いた城」でレポートしている。藤井皓玄(こうげん)の正霊山城も同じルート、小田川沿いに位置する。いっぽう高屋城は高屋川沿いで、小田川とは別の水系に属し、その下流には備後の重要拠点、神辺城がある。小田川は福山藩による改修以前は高屋川に合流していたというから、一体的な動きはとりやすかったのだろう。
永禄十二年(1569)、藤井皓玄は高屋城の広吉らとともに、尼子再興軍に呼応して毛利方の神辺城を攻略する。それも束の間、毛利方の反撃により広吉は討死、皓玄は城を追われ浅口郡西大島村で自害したという。
高屋城ではしばらく藤井方の残党が頑張ったようで、『岡山県中世城館跡総合調査報告書(備中編)』では、永禄十二年十月十五日付け小早川隆景書状(乃美文書)が、次のように紹介されている。
隆景が備中国の情勢について某(宛名欠。乃美宗勝か)に報じた書状。毛利氏に刃向う藤井皓玄が、山野と吉井(芳井)との間に城を築いた。そこで毛利方の軍勢は二三日前に高屋城まで出陣したが、藤井軍を追い払うことが出来ず、毛利元就と隆景で相談の上、援軍を派遣してほしいと要請してきた。これを応諾して元就も隆景も援軍を出すことにしたが、それでも藤井軍を退けることが難しい場合は、宛名の某にも出動を頼むことになるだろう、と伝えている。
この史料から高屋城でも戦闘があったことが分かる。あの五重堀切が毛利軍の進撃を防いだのだろうか。専門家の見立てによると、藤井氏にしては遺構が立派過ぎるので、後に毛利氏によって改修されたのではということだ。いずれにせよ、戦国の緊張感を今に伝える山城として、高く評価できるだろう。