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宍粟を守った宇野氏の支城

播磨北西部の宍粟郡を支配した宇野一族。宇野政頼はあろうことか羽柴秀吉に敵対するのである。後世から見れば選択を誤ったのだが、当時の毛利氏は強大であり、これと敵対するリスクのほうが大きかったのだろう。過去の記事「進退窮まった武将の最期」で紹介したように、政頼の最期は悲話として語り伝えられ、今も手厚く供養されている。

本日は宇野氏の支城の一つを訪ねたレポートである。

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宍粟市千種町黒土(ちくさちょうくろづち)に「千草城址」がある。

鳥取県道・兵庫県道72号若桜下三河線から千草城跡にアクセスする道への分岐に、城跡を示す石碑がある。ただし、ここは城の麓であり、急峻な山上の城跡には、かなり迂回して行くことになる。

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頂上の五社神社が主郭である。

麓の県道は播磨山崎から因幡若桜を結ぶ主要道であり、千草城の存在意義はここにある。神社の社頭に木製立札があるが、雨に打たれて読めない部分が多い。それでも、次のように記されているのが確認できる。

此の地は天正の昔(約四百年前頃)長水城主宇野下総守政頼の家臣石原勘解由光時の構えたり

西播磨の雄、宇野氏の家臣、石原氏の城だったとのこと。宇野氏管轄地域の武将配置は、『千種村是』第七「古戦場」に記されている。

天正年間宇野下総守政頼は揖東(いっとう)、揖西(いっさい)、宍粟、神西(じんさい)、但馬国内の一部と五郡を押領して本郡石生郡五十波(いかば)村長水(ちょうずい)城に居て、伊和郷岡城(おかじろ)の山城には政頼の臣岡城豊後守を、杉ヶ瀬の城には政頼一族日向守祐久を、高家(たいへ)郷都多(つた)村の城には政頼一族采女正祐政を、千草郷黒土の城には其家臣石原右京をして守らしめ其威近国に振ふ

伊和郷岡城の山城は、宍粟市一宮町東市場・下野田の宮山(みやま)山頂にある。杉ヶ瀬の城を守った日向守祐久は、宍粟市山崎町清野にある日向大明神に祀られている。高家郷都多村は宍粟市立都多小学校があった宍粟市山崎町中野あたりらしい。そして千草郷黒土の城が千草城である。街道などの要所を押さえていたことが分かる。

ところが天正八年(1580)、宇野氏は羽柴秀吉による中国攻めに遭遇し、諸城に次いで本城長水城を落とされる。この千草城はどうなったのだろう。敵対勢力がいなくなれば、城郭も無用の長物だ。やがて山頂は信仰の場所として麓の人々が集う場所となった。私が訪れた春は気候が好いにもかかわらず誰一人いなかったが、秋祭りには多くの人々で賑わうそうだ。


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