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2012/08/25

コメント

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玉山

あおちゃんさま
ご教示いただきまして、大変ありがとうございます。
多くの情報を集めねばならない敵討ちは、単独ではなかなか成し遂げられないでしょうね。勉強になります。

あおちゃん

熊野街道歩きをしていて④の碑を、高野街道歩きをしていて⑤の碑及び墓碑を見ていました。敵討ちが私闘ではなく、許可を受けその作法に則ったものであるとすれば、④が最後のものとなるのでしょうね。
 さて、④の土佐藩士広井磐之助の敵討ちに勝海舟、坂本龍馬、勝の塾生らが援助したといわれていることをご存じでしょうか。坂本龍馬の池内蔵太の母宛文久3年6月16日付け手紙のなかに「引井岩之助のかたきうち」(宮地佐一郎『龍馬の手紙』PHP文庫、66頁)という文言が見え、宮地氏は解説において「勝や塾生の力添え」「海舟や龍馬の援助」と述べています。ここで宮地氏は直接的な証拠となるものを明示してはいませんが、なんらかの確証をもってこれを書いているのではないかとも思います。検討されてみてはいかがですか。

玉山

館長さま
当記事をお目に留めていただきましたこと、光栄に存じます。ブログを拝見させていただきました。幕末維新についての造詣の深さに敬服する次第です。天誅組には興味があるので機会を見つけて史跡を巡りたいものです。ありがとうございました。

館長

丁度、この事件を教材にしようと久しぶりにこの境橋に出向きました。
4つの仇討が分かりやすく書かれていて有り難いです。

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