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修行したのは鑑真か玄昉か

宮崎県日向市には「クルスの海」という奇観がある。九州だけにクルスと名付けたのは見事だ。ただし、切支丹時代から知られていたわけではなく、21世になって観光開発が進んだようだ。

私たちは直交する二本の線を十字架に見立てる傾向がある。本日紹介する岩も十字に割れている。だがこちらは、仏教ゆかりの場所らしい。

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岡山市北区建部町豊楽寺に「行岩」がある。

この岩を見学しようと思い立ったのは5年前の夏のこと。細い車道を抜けると立派な伽藍の豊楽寺がある。お寺の近くに件の岩があると思ったが、探せど探せど見つからない。歩き回っていると突然、足先に鋭い痛みが。見れば赤点二つ。どうやらムカデに咬まれたらしい。探索中止、即退散する破目となった。

その後、二度リベンジしたが無理だった。ネット地図の航空写真で当りをつけて挑んだものの、ついに発見できず諦めていた。初チャレンジから3年半。まだ攻めていない尾根筋があることに気付き、四度目の探索を敢行した。

最初に見つけたのは三等三角点「豊楽寺」。その後しばらく彷徨い続けたが、結果的には三角点の手前を左へ進み、しばらく進みさらに左へ分岐して行岩に到るルートが見つかった。この印象的な岩には、どのような由来があるのだろうか。建部町教育委員会『たけべの文化財』を読んでみよう。

行岩
豊楽寺の西山上にあり、高さ約2.1m、周囲約16.2m、中央から四つに割れて裂形が十字になっている。地元では「ぎょういわ」とも「おこないいわ」とも呼ばれている。久米郡誌によると和銅の頃、僧玄昉が岩に上がり苦修練行し種々の奇瑞を顕わしたとある。また、方位石ともいわれ、中央に磁石を置くと東西南北が裂形と一致し、太陽の神を祈る古代信仰と関係があるのではないかともいわれている。

方位磁針を持ち合わせていなかったから、東西南北が裂形と一致するかどうかは確認していない。気になるのは僧玄昉が修行したことだ。橘諸兄政権の主要閣僚として権勢を振ったものの、藤原仲麻呂の台頭によって失脚した。若き日に豊楽寺で修行したのだろうか。『久米郡誌』第四章名蹟第二節旧蹟「行岩(修禅石)」には、次のように記されている。

行岩(おこなひいは)修禅石(しゅぜんせき) 福渡町大字豊楽寺
豊楽寺西方の山上にある。高さ七尺、周囲五丈四尺、中央から四つに割れて裂形が十字になってゐる。これは和銅の幼年僧玄昉此岩に上り苦修練行し種々の奇瑞を顕はしたといひ、今に行岩、修禅石又は修岩と呼んで居る。其上面に凹痕がある、これは玄昉が常に焼香した跡だといふ。(作陽誌には玄昉を鑑真となす)

確かに凹痕がある。焼香すれば穴が開くというのか。それよりも気になるのは「作陽誌には玄昉を鑑真となす」という註である。玄昉を上回るビッグネームが登場した。『作陽誌』西作誌中巻「久米郡南分」寺院部「薬王山豊楽寺」には、次のように記されている。

修禅石
在山上俯瞰河或名修岩厚七尺広方丈縦横壁裂形作十字伝曰鑑真修禅石

山上にあって旭川を眺めることができる。別名は修岩。高さは七尺、広さは一丈四方、十字に割れて縦横の壁ができている。鑑真が禅を修めた岩だと伝えられている。

行岩の行の字もない。木々が茂って眺望も利かない。政僧玄昉の代わりに高僧鑑真和上が登場した。坊津そして嘉瀬津に上陸した和上は大宰府に入り、博多津から瀬戸内海を通過して難波津に到ったと考えられている。この途上に豊楽寺に寄ったというのであろうか。

謎だらけの行岩。いや本当は何一つ謎なんてないのかもしれない。方状節理という地質現象を見ているだけなのだ。ただ、その幾何学的に美しさを目にした人は、何がしかの意味を見出そうとする。高僧が修行したからこうなったのだと。日本史上高僧は数多くいるが、なぜ鑑真が選ばれ、そして玄昉へと変化したのか。それこそ大いなる謎である。


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