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禅師が己の姿を凝視した寺

政教分離と言いながら政治と宗教がスキャンダラスで密な関係にあるのは、民主主義の本質によるものだろう。自らが信頼する者に政治を託すことと、自分を導いてくれる先師に心を寄せることは、はっきり言って同じ心性である。権威を必要とするのも共通している。権威がなければ、心を一つにできない。

本日の話題は臨済宗である。鎌倉五山だとか京都五山だとか、鎌倉幕府や室町幕府と密接な関係を保っていた。開祖栄西も北条政子に招かれ寿福寺を開いた。やはり相互に補完する関係にあったのだろうか。栄西禅師の出身地、備中からのレポートをお届けしよう。

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岡山市北区日近(ひぢかい)の安養寺(臨済宗)は「茶祖栄西禅師得度地」である。標柱は、栄西禅師御生誕八百年を記念して、昭和十五年四月に建てられている。

禅師の生誕地は以前の記事「お茶を飲んで800年」でレポートした。備中吉備津宮の神職賀屋氏の出身である。記事では、虎関師錬(こかんしれん)の仏教史書『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』の原文を紹介している。まさに偉人らしい異常出生譚だ。

栴檀は双葉より芳し。『元亨釈書』では出生譚の後に、次のような記述が続く。

八歳従父読倶舎頌聡敏邁群児。十一師事郡之安養寺静心。心者甞於三井寺与西父同業。以故就焉。十四落髮登睿山戒壇。

8歳で世親が著し玄奘が訳したという『倶舎論』を父に従って読み、11歳で地元の安養寺の静心和尚に師事した。和尚はかつて三井寺で栄西の父と同業だったという縁があった。そして14歳で落髪し比叡山に登ったという。この安養寺が本日の舞台である。

岡山県教育会が発行した郷土教育史料第一輯『僧栄西』には、次のように記されている。筆者は吉備郡日近尋常高等小学校長の伊丹濶先生である。日近小学校は高田小学校を経て蛍明小学校へとつながっている。

十一才にして当村日近新町なる救世山安養寺に入りて静心和尚に教を求めた。当時の世態として学問は実に僧侶の手にのみあったのであるから栄西が好奇心と天稟(てんぴん)の英才は必然的にその将来を仏門に開拓せんとしたのは当然の事であらう。此の稀代の天才児栄西が山高く草深き日近の里に静心和尚を訪ねて教を求めた事から考へて見ると日近安養寺が斯界に於ての一権威であったことが想像されるのである。爾来四星霜安養寺は実に栄西が修業第一歩の聖なる道場であったのである。里人は熱心なる栄西の勉学精進とその聡明を激賞した「人生意気に感んず」で師の坊静心和尚の薫陶は亦白熱的であった。栄西は又修業の道場を馬屋上村の日応寺に求めた。高き山も深き谷も峻しい坂も栄西が好学心探究心の前には何物でもなかった。杉谷を通ふて幾度か日応寺へ通ったのである。しかも路に経を誦し、樹陰石上に瞑想する栄西の尊き姿に杉谷の里人は先づ驚き次に感歎し、やがては尊敬して其の姿を拝した。齡十四の若き生命の全的燃焼は確に尊き霊光を、その全身より発散してゐたに違ひない、今日当村杉谷に遺る上人堂は之が遺跡である。かくて十四才にして得度し、幼名明菴の名を栄西と改めた。一日安養寺の裏の谷間なる井戸の清水に己の姿を見た栄西は己の姿を凝視した。周囲の鬱々たる樹木の静寂に包まれたる此の谷間でひたすら己の姿に見入ったのである「己の姿を見る」「己の心像を見る」「己の苦業の姿を見る」こうして深く深く己を掘りうがして行き、見つめて行って全く時の経つのを忘れてゐた。やがて我に返った栄西は十四才の己の心の姿を留むべく印刀を手にした霊力によって忽ち刻み上げられたるは、かの三寸五分の木像なのである。郷土日近に於ける栄西の生命は実にこの三寸五分の自刻像にあるのである。宜なる哉爾来此の木像を拝して旱天に水を希ふ時忽ち霊験があるのである。

さすがは校長先生。子どもにも分かりやすいように感動的に語っているが、鎌倉時代以来言い伝えられた話なのか、後世の人が神童に相応しい物語を創作したのか。いずれにせよ、安養寺には栄西ゆかりの旧跡が残っているのである。

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寺の裏山右手に「姿見の井」がある。栄西が求道する自己の姿を映したという井戸である。

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本堂の右隣に「祖師堂」があり、標柱には「栄西禅師御自作像安置」と刻まれている。雨を降らせる霊験を顕した自刻像である。

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本堂の左手に「栄西禅師御手植菩提樹」がある。

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祖師堂の前に「茶祖栄西供養塔」がある。栄西禅師の墓は京都建仁寺の開山堂だが、一般公開されていない。これに対して安養寺の供養塔は何時でも誰でもお参りができる。

建仁寺と言えば「風神雷神図屏風」である。開山・栄西禅師800年遠忌特別展「栄西と建仁寺」が、平成26年(2014)に東京国立博物館で開催された。行ってはないが、展示の目玉はやはり「風神雷神図屏風」だったらしい。

この屏風を私は一度だけ建仁寺で拝観したことがある。端座して凝視すると両神に見返され、しばし動くことができなかった。おのれの至らなさを責められるようであり、立って歩む力を与えられたようでもあった。この静かな禅寺に栄西禅師が眠っていることなど関心さえなかったが、自分を見つめることの大切さを教えられように思う。パーティー券を売るのに汲々としている政治家は、今こそ禅の精神に学ぶべきだろう。


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