源義経と静御前は吉野で別れる。静は捕らえられ鎌倉へ連行、そこで生んだ男児はすぐに殺害され、静は追放、その後は不明である。一方、義経は逃避行ののち奥州平泉で自害した。文治5年(1189)のことである。この時、義経とともに22歳の妻と4歳の娘が義経と死を共にしたという。静御前は妾であって正妻ではない。正妻の名は一般的には郷御前だが、川越では京姫、平泉では北の方と呼ばれているようだ。今日はその正妻の父親の話である。
川越市元町二丁目の養寿院に「伝河越太郎重頼の墓」がある。きれいに整えられて気持ちよい。訪れたのは春の終わり。鳥が啼き声と木々の緑、遠くに見える埼玉りそな銀行の瀟洒な建物とが相俟って穏やかな景観を作り出していた。
河越氏は桓武平氏の流れをくみ武蔵国に根付いた武士団、秩父党の惣領家で、1180年源頼朝が反平氏の挙兵をすると、いったんは敵対するがやがて頼朝に帰順し、有力な御家人となる。1184年には源義経に娘を嫁がせる。ところが義経は、平家討滅の栄光とは裏腹に頼朝の勘気をこうむって対決を深めていく。その影響をまともに受けたのが義経の岳父、河越重頼であった。そのあたりの事情を河越太郎重頼公没後八百年を記念して刊行された『河越氏とその館跡』で読んでみよう。
河越氏は源家との婚姻によって、その勢力を発展させ、重頼は栄誉を担った。義仲追討、平家追討と、頼朝・義経の下で活動し、その功績によって、『吾妻鏡』によると、文治元年(一一八五)十一月十二日の条に「伊勢国香取五箇郷」を所領として与えられている。
しかし、頼朝と義経の関係が悪化すると、河越氏に対する処遇も冷たくなってくる。『吾妻鏡』文治二年十月二十三日条に「明日御堂供養御出随兵以下供奉人事。今日之を清撰せられる、其の中河越小太郎重房者、兼日件の衆に加えられると雖ども、豫州(義経)の縁者の為に依り之を除かれる」とあり、勝長寿院の落慶供養に臨席する頼朝の随兵から、重房は義経の縁者であるため除かれている。
さらに、十一月十二日には、
「今日、河越重頼の所領等収公せられる。是義経縁者の為に依る也。其内、伊勢国香取五ケ郷は大井兵三次郎実春に之を賜う、其外の所は、重頼の老母に之を預ける。また、下河辺四郎政義も同じく所領等を召し放される。重頼の聟の為に之の故也」とある。
河越氏の所領の内、香取五ケ郷は大井氏に与え、他は重頼の老母である比企尼が管理することとなった。さらに北葛飾の下河辺荘の荘司である下河辺政義も、重頼の息女の聟のため所領を没収されている。
しかし文治三年(一一八七)十月五日に、
「河越太郎重頼、伊豫前司義顕(義経)縁坐に依って誅られしと雖えど遺跡を憐恕せ令れ給する間、武蔵国河越庄を、後家尼に賜之處」とある。
頼朝としては、関東における、義経の縁者は唯一河越氏だけで、その河越氏が義経のために動く危険性が考えられた。義経の軍事力は弱体であるため、河越氏をたよることの可能性が高いので、頼朝は、行家・義経が頼朝を追討せよとの院の宣旨を受けたという、うわさを聞いた翌日、重房を供奉人からはずし、さらに、河越氏の軍事基盤である領地を没収したのである。前述した様に、伊勢の香取五ケ郷以外は、重頼の妻の母である比企尼に預けられた。この時点で、重頼・重房は誅されたと思われる。
しかし、文治三年になると、河越庄は比企尼にかわって、その息女で重頼の妻であった後家の尼が管理するようになる。これは、比企氏の管理下にあった河越庄が、河越氏に返還され、形式的にしろその管理が河越氏に移ったことを示している。
頼朝としては、義経の軍事的基盤である河越氏の所領を収公すれば、その目的を達するため、河越氏を滅亡させるまでの意図はなかったと考えられる。したがって、後家尼に河越庄の管理を与えているのである。
頼朝は河越氏が憎かったのではない。義経の勢力を削ぐことが狙いだった。重頼は義経という猪武者を娘婿に持ったこと悲運だったのかもしれない。地元で手厚く供養されていることがせめてもの救いである。
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