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史蹟に指定されていた明治天皇の聖蹟は岡山県内に9か所あり、このうち明治18年山陽道御巡幸に関するものが5か所、明治43年陸軍特別大演習に関するものが5か所ある。岡山行在所の後楽園延養亭は両度宿所となった。
山陽道御巡幸において、ちょっとひと休みしたという「御小休所」は2か所あり、香登御小休所については「真夏に氷でおもてなし」でレポートした。陛下におかれてはこの後、西片上でお昼を食べられ、いよいよ峠の坂道を進まれることになる。
播備国境、兵庫岡山県境に向かう道の途中、備前市八木山に「山陽道八木山一里塚跡」がある。中世の山陽道は今のJR山陽本線のルートだったが、近世には国道2号線のルートになった。現在は備前ICが整備され、物流の要衝となっている。
山陽鉄道の開通が明治24年。まだ鉄道がなかった明治18年、かつては大名行列も通った山陽道に最後の栄光が訪れた。明治天皇がお通りになったのである。そこもと、頭が高うござるぞ。
一里塚の石碑と同じ敷地に「明治天皇八木山御小休所阯」がある。史蹟名勝天然紀念物保存法により昭和11年に史蹟として指定された。
敷地の中央に「御幸碑」がある。明治十九年十月の建立である。
かなり風化が進んでおり、すでに欠落している箇所もある。岡山県教育会「備作教育」第334号「明治大帝岡山県御巡幸史」に掲載の碑文を参考に復元してみよう。(旧字体は新字体としている。)
明治十八年七月
皇上西巡山陽道海路先臨山口県而過広島県越八月五
日 御艦着我岡山県備前国上道郡江並港駐蹕於岡山
後楽園二日七日昧爽発岡山到一日市村吉井川上 車
駕少駐焉既 駕左望熊山而過山属和気郡児島氏挙義
之処也進少駐香登駅駐片上駅駐八木山終進駐三石駅
以光明寺充 行宮八日昧爽発三石駅従此以東為兵庫
県管轄播磨国総之 車駕経過和気郡行程五里 駕之
少駐者三所為 行宮者一所比之不能聞和鑾之音見錦
旗之美之郡邑何其多幸也於是本郡人民欣欣然相謀将
樹碑於八木山以永紀今日之喜告之郡長大森安太郎安
太郎亦嘉其志来徴文於毅一毅一以不文辞之不得謹按
人民紀今日之喜者必懐往昔之悲也懐往昔之悲之所以
紀今日之喜也其故何也八木山之東三石三石之東所謂
舟坂皆古険要之地也当北条高時遷 後醍醐天皇於隠
岐也駕将過舟坂之険本州草莽之臣児島高徳奮孤忠敢
抗強逆欲以奪 駕其忠憤義烈与天歩艱難之状千載之
下懐之尚覚悽愴惨憺悲風凛凛也今也幸海内無事時和
歳豊険路変為坦途人民各安其堵扶老携幼聞和鑾之音
拝観錦旗之美於路傍或有感激涙下者云豈非由有古今
之感乎然則建碑之挙亦臣子之至情発於弗可已也歟
明治十九年十月
岡山県知事従五位勲四等千阪高雅篆額
従六位 西 毅一撰併書
山陽道を巡幸される天皇陛下は、まず山口県、次に広島県を訪れ、8月5日に軍艦で我が岡山県三蟠港にお着きなった。岡山後楽園延養亭に二泊され、7日早朝に岡山を出られ、一日市村吉井川のほとりで田草取をご覧になった。(御休の地名由来である。)仮設の舟橋で吉井川を渡り、お車は左に熊山を望みながら進んだ。この山は和気郡に属し、児島高徳義挙の地である。少し進んで香登駅の楠原熊男邸で小休し、片上警察分署で昼食をとり、八木山で小休し、その日は三石駅の光明寺を行在所とした。8日早朝三石駅を発たれ、東側の兵庫県播磨国に入られた。まとめると、お車は和気郡を五里進み、小休したのは3か所、お泊りになったのは1か所。お車の鈴の音を聞いたり美しい錦旗を見たりできない人に比べると、なんと幸せであることか。こうして、本郡の人々は歓喜して八木山に石碑を立て、今の歓びを永く記念することとし、郡長大森安太郎に知らせたのである。安太郎はその志を褒め、私毅一に撰文を求めにやってきた。私は文章が下手だからと拝辞するわけにいかない。謹んで考えると、人民が今日の歓喜を記念しようとするのは、必ず過去の悲劇を偲ぶからだ。過去の悲劇を偲ぶがゆえに、今日の歓喜を記念するのである。それはどういうことか。八木山の東は三石、三石の東は船坂峠という険要の地である。北条高時が後醍醐天皇を隠岐に遷そうとして、船坂峠を過ぎるその時に、この地の草莽の忠臣児島高徳が一人忠義を尽くし、あえて困難に立ち向かい、天皇をお助けしようとしたのである。忠義の心が極めて強いものの、時の巡り合わせに恵まれず、困難に直面した様子は、長い年月を経た今日にあっても、非常に痛ましく、悲しみを誘う風の音を感じる。今や国内は平和で豊かになり険しい道も歩きやすく改修された。人民は各々が安心して暮らし、老いた者に付き添い幼き者の手を引いて、路傍からお車の鈴の音を聞き錦旗の美を見させていただいた。感激のあまり涙を流す者があったという。時代は変わったという感慨を抱いているのだ。ならば、このたび記念碑を建てるのもまた、臣民の抑えきれぬほどの衷情によるものではないだろうか。
近隣の独裁国家のような賛辞であるが、当時の国民は心からそう感じていたのだろう。天皇という存在は、新たな時代の息吹を発していた。閑谷黌の黌長であった西毅一は、船坂山義挙の故事と比較し、今はなんと幸せであることかと感嘆している。
碑文は巡幸の経過と民衆の歓喜を伝えているが、ここ八木山での様子は具体的でない。夏の最中のことである。40℃超が頻発する今年ほどではないだろうが、暑さをどのように凌いだのか。『和気郡史』通史編下巻1には、「破天荒のハプニング」が掲載されている。天皇は香登から馬に乗って進まれていた。
炎天下、暑熱にあふられての馬上行進は苦しい限りで、しかも盛装に威儀を正しての行儀は、若い天皇には堪えられなかったと見える。東片上村の大東を少し過ぎたころ、天皇は突然くつわを持った馬丁の手をふり切り、馬に一鞭くれて早駆けを始めたと言う。侍従はじめお付きの人々が、あれよあれよとあわてふためいているのを尻目に、坂路を全速疾走しつづけ、八木山村の高須にしつらえてあった仮設の休憩所に入った。侍従たちが青くなって後を追ったところ、天皇はすでに休憩所内で裸になり、全身の汗をふいておられた(楠原清馬氏ほか香登の古老の話)。
やってられっか。ぺこぺこぺこぺこ、ありがたがるはいいが、少しはこっちの身にもなってくれ。お前らにとってはほんの一時でも、オレはずっとだぞ。そう思ったかどうかは定かでないが、明治大帝の人間的なあまりに人間的な姿であった。
行幸が珍しくなくなった現代にあって、明治大帝聖蹟が顧みられることは少ない。「天皇ファースト」により国民統合を図っていた時代相を表す史跡として長く保存すべきだろう。
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