源頼朝が亡くなったのは、相模川で行われた橋の落成式に参列した帰り道で落馬したことが原因だったという。落馬した地点はJR辻堂駅近く藤沢市辻堂二丁目にあり、橋供養が行われたのは国の史跡・天然記念物「旧相模川橋脚」のある茅ヶ崎市下町屋一丁目であり、現在の橋では国道1号の馬入橋に当たる。主要路の道筋は鎌倉の昔も今もそれほど変わっていない。
このことは『吾妻鑑』建暦二年(1212)二月廿八日条に、次のように記録されている。
去建久九年、重成法師新造之、遂供養之日、為結縁之故將軍家渡御、及還路有御落馬、不経幾程薨給畢、
橋の完成を祝い、通行の安全を祈願する行事を橋供養といい、各地に橋供養碑が残されている。現存最古の石碑という「宇治橋断碑」も橋供養碑である。
広島県世羅郡世羅町青近に「川角橋の石橋供養塔」がある。石垣の一部になっている。
うしろを振り返ると橋があるから、これが川角橋だろう。供養塔はこの橋が石橋として完成した時に建てられたものなのだ。
川の名は山田川、芦田川水系の一級河川である。そしてこの道は広島県道56号府中世羅三和線で、県中部を東西に結んでいる。山田川を安定的かつ安全に渡河できることは、江戸時代においても必要であったのだろう。説明板には次のように記されている。
川角橋の石橋供養塔
施主 助右衛門 助力志中
(梵字)石橋供養為六親眷属及至法界平等利益
願主 口右衛門 敬白
一、川角橋が大洪水により流失し石橋に架け替えられたとき供養会を営み法界塔として正徳六丙申天二月吉日(一七一六年二月吉日)建立
一、花崗岩製、高さ一七六センチ 幅三ニセンチ
下谷組
「及」は「乃」の誤りだろう。「六親眷属乃至法界平等利益」はあまねく人々の幸せを祈る定型句で、石橋の完成が社会の発展につながることを願っている。石橋ではなくなった今も、県道の一部として機能を果たしているのだから、先人の努力には頭が下がる思いがする。
元禄期に商品流通が増大したことから、正徳元年(1711)に新井白石の主導により駅制改革が行われ、正徳の元賃銭と呼ばれる運賃の基準が定められた。正徳六年の川角橋架け替えが直接関係あるわけではないが、流通量の増大が背景にあったことは確かだろう。
現代でも橋の新規架橋や架け替えはよくある。交通渋滞の解消、老朽化、流失からの復旧など、様々な背景があるようだ。大きな橋なら竣工式が執り行われ、渡り初めがハイライトとしてニュースになっている。まさに建久九年の「将軍家渡御」と同じだ。大化二年の宇治橋でも、正徳六年の川角橋でも、渡り初めの儀式は行われていたのだろうか。
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