我が国の三大廻国伝説は花山法皇、北条時頼、そして水戸黄門だろう。花山法皇の聖蹟は西国三十三所となり、水戸黄門のロケ地は全国にある。鎌倉幕府第5代執権北条時頼の足跡は最明寺となった。これまで岡山市中区湯迫の最明院、姫路市野里大日町の大日山最明寺、川崎市中原区小杉御殿町一丁目の西明寺を紹介した。
兵庫県佐用郡佐用町春哉(はるかな)に「岩間山最明寺」がある。立派な建物は「国重要文化財木像北条時頼座像収蔵庫」である。
最明寺という寺名から北条時頼ゆかりと推測していたが、国重文の木像が鎮座していたとは恐れ入谷の鬼子母神。どのような由来があるのか、説明板を読んでみよう。
北条時頼座像由来
北条相模守時頼は、寛元四年(一二四六)より康元元年(一二五六)に至る十年間、鎌倉幕府五代目執権として裁判制度などの改革をはかり、幕府体制の強化につとめた。
執権の地位を長時に譲った後、仏門に入り覚了坊道崇(かくりょうぼうどうすう)と名乗り最明寺入道と呼ばれ旅僧に姿をかえて諸国を行脚し、寺院の建立や修理をして仏法の興隆に尽くす一方、国々のありさまを調べ不法非礼を正し、人々の愁などを問い聞き訴訟の公平を施したことが『太平記』などに伝え記されている。
諸国回国の途中この地を訪れ大雪と旅の疲れにより病に倒れた時頼は、正元元年(一二五九)十一月から翌年二月十四日までの三ケ月間ここに滞在し村人の被護のもと体を癒し、『春哉の里』と題して
深雪(みゆき)にも あさる雉子(きぎす)の声聞けば おのが心は いつも春哉
の歌一首とともに自作の木像一体を残して、人知れず何処ともなく立ち去ったといわれ今に伝わっている。
明治三十四年八月二日 国宝指定
昭和二十五年五月三十日 国指定有形重要文化財
佐用町 北条時頼座像保存会
地名の由来となった「いつも春哉」の歌と自ら刻んだ木像を残して立ち去ったという。さらに、ここは旧三日月町だが、時頼が三か月滞在したことにちなむとされる。伝説にはありがちな内容だが、史実とは思えない。しかし、木像は鎌倉時代後期の作とみられ、国重文に指定されている。
伝説の出典を探ると、『播磨鑑』佐用郡名所旧跡竝和歌【春哉村】に、次のように記されていた。
時ならぬ雉子のおとつれけれは我をとふならんとあはれに思しめして
深雪にも雉子はほろゝを掛にけり
なれか心はいつも春哉
と詠し玉ひしより此所を春哉の里といふなる
時頼の歌が少々異なるが、雉子(きぎす)はキジのことで、「深い雪でもキジの鳴き声がする。心はすでに春だ。」という意味は同じに思える。
時頼の坐像は全国に5体あり、西日本ではここだけとされる。他にどこにあるのか探してみた。もっとも有名なのは、鎌倉建長寺の国重文「木造北条時頼坐像」である。こちらは僧形ではなく俗体武人像だ。
3例目は北鎌倉明月院の県重文(彫刻)「塑像北条時頼坐像」。こちらは僧形である。4例目は愛知県新城市の市指定有形文化財(彫刻)「北條時頼坐像」。こちらも僧形である。最後は相模金子の最明寺にある「北条時頼坐像」。こちらは武人像だ。
こうしてみると、確かに西日本の北条時頼像は珍しく、国重文指定も誇らしい。時頼公が本当に来訪して木像を残したのかもしれないし、現代の水戸黄門のように勧善懲悪のヒーローとして人々に慕われ、その象徴として木像が制作されたのかもしれない。北条時頼公は中世の水戸黄門だったに違いない。
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