雪の結晶に蜂の巣、柱状節理と、六角形は自然の中でいくつも見つけることができる。見たことはないがベンゼン環も六角形だ。けっこう安定した形状なのだろう。そういえば、キッコーマンの六角形マークは食卓で親しまれているし、鉛筆もボルトの頭も六角だ。ならば、古墳が六角であってもウェルカムだ。
姫路市安富町塩野に「塩野六角古墳」がある。
見た目には小さな円墳だが、発掘調査によれば六角形の形状をしているという。説明板を読んでみよう。
塩野六角古墳
平成7年3月28日兵庫県史跡指定
塩野六角古墳は、安富町塩野字岡ノ上の標高約150mの南東面尾根上に単独で築造された終末期古墳である。
平成2・3年に行われた発掘調査により、全国で初めて墳丘が六角形をなす「六角墳」であることが判明した。その後、岡山市の奥池3号墳、奈良県明日香村のマルコ山古墳が六角墳であることが明らかになっている。
古墳の規模は、一辺4m前後、対辺間の距離は7m前後で、前面には外護列石を伴う。また、古墳の背後には上幅1.3~1.9mの周溝が認められた。外護列石や周溝の検出状況から、古墳の主軸上に六角形の角が位置すると考えられている。
埋葬施設は南に開口する無袖式の横穴式石室で、全長4.4m・開口部幅1.1m・奥壁幅0.8m高さ1.3mを測る。石室内には棺台と考えられる5個の石が据えられていた。
遺物は非常に少なく、副葬品の須恵器長頸壺と、後世に流れ込んだと考えられる中世の土師器杯が出土しただけである。
須恵器長頸壺は完形品で、高さ24.2cm・口径8.5cmである。石室北東隅の棺台石上で見つかった。また、須恵器の杯は棺台の中央部から出土しており、これらは柩の上に置かれていた可能性が高い。
須恵器の年代観から、古墳の築造時期は古墳時代終末の7世紀後半と考えられる。
塩野六角古墳の被葬者を特定できる史料はない。古墳の立地からは、林田川沿いに広がる平野部を治めた人物とみることができよう。
8世紀前半に成立した『播磨国風土記』には、現在の安富町域にあたる「安師里(あなしのさと)」について、以前は山守里(やまもりのさと)と呼び、山部三馬(やまべのみま)が里長であった、との記載がある。また、平城宮跡出土の木簡などからも山守里と山部氏の関係がうかがえ、これらの史料に表れる山部氏を被葬者とみる説が有力である。
多角形の墳丘をもつ古墳としては、八角墳が全国に十数例知られている。こうした多角形の墳丘は、道教や仏教思想に由来するともいわれる。ただし、塩野六角古墳と同じ7世紀代に造られた八角墳の多くは天皇陵に比定される大規模なものであり、これらの古墳と直接の関係があるかどうかは不明である。
平成29年3月 姫路市教育委員会
古墳が仮に正六角形なら、一辺4mとすれば対辺は8mになるはずだ。実際には一辺はもう少し短く対辺はもう少し長いのかもしれない。林田川沿いに広がる平野部を一望できる好立地で、地域のリーダーに相応しい墓だ。『播磨国風土記』宍禾郡安師里条には、次のように記されている。
安師(あなし)の里(本の名は酒加(すか)の里)
土は中の上なり。大神、ここに飡(いひす)かしたまひき。かれ、須加といふ。後に、山守(やまもり)の里と号くるゆゑは、然るは、山部三馬(やまべのみま)、任(よさ)されて里長となりき。かれ、山守といふ。今、名を改めて安師(あなし)となすは、安師川によりて名となす。その川は、安師比売(あなしひめ)の神によりて名となす。
安師(あなし)は姫路市安富町安志(あんじ)を遺称地とする。酒加(すか)は宍粟市山崎町須賀沢(すかざわ)を遺称地とする。両者は隣接しており、ともに宍粟郡に属していた。そして宍粟郡は製鉄がさかんな地域であった。六角古墳の被葬者とされる里長、山部三馬は、山林資源を貢納する一族で、鉄生産にも関わっていたと考えられている。
説明板に紹介されている岡山市の奥池3号墳は、直径10m程の円墳上に外護列石を歪な六角形に並べているという。近くに製鉄遺跡があることから、技術集団のリーダーの墓と考えられている。六角形の墳形は製鉄に関係があるのか。単にリーダーのステータスを示す形なのか。
岡山市北区津高台一丁目の津高台公園に「奥池3号墳」があった。
ここには奥池古墳群と呼ばれる4基の古墳があったが、団地造成に伴う整備で今は公園になっている。その跡は4つの円に並べられたブロックで示されている。塩野六角古墳もそうだが、ここも六角墳を偲ぶよすがは何もない。
では、奈良県高市郡明日香村大字真弓にある国指定史跡、マルコ山古墳はどうか。なんとなく六角形のように見え、対角長は24mという大きさだ。一説によれば天智天皇の皇子、川島皇子の墳墓だという。いずれにしても被葬者は皇族であろう。同じ六角墳でも格が違う。
六角古墳から下へ降りると「塩野六角古墳(附)塩野古墳」がある。(附)は附(つけたり)指定であることを示す。六角古墳と密接な関連があるようだ。説明板を読んでみよう。
塩野古墳(円墳)【県指定文化財】
この古墳は、わずかに残っていた周囲の溝から、直径が7メートルの円墳であると推定され、六角形古墳とあわせて県指定文化財になっている。
石室は、一般的な無袖の横穴式であるが、玄室と羨道の境に20センチ程度の段差があり、使用している石も玄室は大きく、羨道は比較的小さな石で積み上げており、石室と羨道の区別も段差を境としていることが確認できる。
その構造も、羨道の基底石の上に玄室の基底石を乗せていることから、まず羨道を造り、それに添わせて石室を積み上げ築造した他に余り例のない、構造が大変珍しい古墳である。
安富町教育委員会
何でもないように見えるが、「構造が大変珍しい」という。これは古墳の築造技術が最高度に達した終末期ならではの特徴なのか、被葬者のステータスを示す意匠なのか。六角古墳の陪塚のような位置関係だから、被葬者にも主従関係があったのかもしれない。
六角形と八角形なら、作図しやすいのは六角形だろう。古墳が終末期を迎えなければ、六角形は古墳のスタンダードになっていたかもしれない。こころみにGoogleニュースで六角形を検索すると、六角形めがね、六角形モチーフのカーデザイン、六角形スイーツ、六角形信号機に加えて、カリフォルニア州の砂漠上空で六角形のUFOが撮影された、との記事まで見つかった。六角形は時空を超えて拡散し続けている。
コメント