"江戸後期" にカテゴリー登録されている75 投稿

出雲街道をゆく(首切峠→四十曲峠)

首の皮一枚でつながっているとは自分のことかと疑心暗鬼になる。実のところ、動脈も神経も切れているから命まではつながっていない。それでもつながる薄皮に希望を託して毎日頑張っているのだが、おいと呼び止められ、お前はすでに死んでいると引導を渡されたら、ハッと我に返り目を丸くしたまま細胞レベルで崩壊するかもしれない。

バス停にたたずみながら、そう考えた。その名は「首切」。なかなか見かけることのない稀少な地名だ。一つ前のバス停は「雇い止め」というのだろうか。また、いらないことを考えてしまった。

DSC06533

真庭市美甘(みかも)に真庭市コミュニティバスの停留所「首切」がある。1日に4便停車する。名称の由来は近くにある峠だ。現在の国道181号をバス停から北へ向かうと、首切トンネルを越え新庄川を2回渡るが、かつての出雲街道は峠を越えて北に向かう。

DSC06533

首切トンネルの近くに「首切峠」がある。

それにしてもなぜ「首切」なのか。放置しておくと心霊スポットにされかねないので、明らかにしておこう。角川書店『岡山県地名大辞典』「首切乢(くびきれだわ)」の項には、次のように記されている。

天文年間、山陰の尼子氏と、この地域に居住していた三浦氏とが激しく戦い、多くの首をこの乢で切ったために地名が残ったという。

知ったばかりに少々怖くなったが気を取り直して、出雲街道を山陰へと向かって進もう。まもなく美甘宿があり、さらに進めば、桜並木が美しいこの宿に到る。

DSC06533

岡山県真庭郡新庄村に「新庄宿」がある。写真は中町のあたりだ。県の町並み保存地区に指定されている。

ここは「がいせん桜」が有名だ。「がいせん」とは「凱旋」で、明治三十九年に日露戦勝を記念して137本の桜が植えられた。だから江戸時代の景色ではなく、近代史の一断面を伝える風景なのだ。花の時季にはたいへんな人出となるが、写真では9月上旬の陽射しが葉の緑を濃くしている。

DSC06533

新庄宿を抜けると、街道はやがて山中の道へと入っていく。新庄村田井に「一里塚跡」がある。

標柱は立派なのだが、どこが塚なのか、目印となる木はどれなのか、いくら見ても分からない。説明板を読んでみた。

出雲街道一里塚跡
慶長九年(一六〇四年)津山藩主森忠政は、領国内の出雲街道の三六町ごとに一里塚をつくらせた。
一里塚は道の両側に設けたもので、ここは明治初年までエノキの木が残り、幹の周りは四尺(約一・三メートル)ばかりあったという。
一里塚は五間(約一〇メートル)四方の大きさで、土を盛りあげていたのである。
これは街道を行く旅人の里程の目安であるとともに、休息の場所でもあったのである。新庄ではもう一ヶ所姿地区にもあったということである。
新庄村教育委真会

要は何も残っていないということだ。下がったテンションを引きずったまま少し進むと、この景色に出会うことができる。

DSC06533

日光街道を思わせる美しい杉並木が続く。この景色を見るだけでも、遥々と時間をかけて行く価値はある。後鳥羽公園を通り過ぎ坂道を上ると峠に出る。

DSC03910

新庄村田井と二ツ橋の境に「嵐ヶ乢」という峠がある。

近年は高規格の林道が波打つように山中を抜けているから、峠の厳しさをあまり意識なくなっている。この峠のあたりも切り下げられ、越えやすいよう整備されている。それでもこの峠が街道をゆく人々に強く意識されていたことは、地蔵の存在から知ることができる。説明板を読んでみよう。

嵐ヶ乢(あらせがたわ)と地蔵
新庄宿と四十曲峠との中間にある鞍部で嵐ヶ乢といいます。上りは八丁(約九〇〇米)で、下りは七丁です。津山藩主む領地検分のためここまできたということです。
ここは江戸時代のままの出雲街道です。大名が通り、公家の姫の嫁入道中籠が越え俳人やお伊勢参りに、出雲大社詣での人たちも通った道なのです。
乢の頂上には地蔵さんがありましたが、今は下に下げ、この右の山の斜面に移されています。文政四年(一八二一年)法界といつ文字が刻まれています。通る旅人は旅の安全を祈り、地元の村の人達は悪い病がここを越えて入ってこないよう願ったのです。
新庄村教育委員会

「む」→「の」、「つ」→「う」というミスがあるが、それはどうでもよい。お地蔵さまの表情は優しく、遠くから来た私にも「ようここまで来たなあ」と話しかけてくるかのようだ。ここから二ツ橋地区の茶屋集落を過ぎ、いよいよ出雲街道最大の難所として名高い四十曲峠だ。

DSC06533

岡山県真庭郡新庄村二ツ橋と鳥取県日野郡日野町坂井原の境に「四十曲峠」がある。ここをかつて国道181号が通過していた。現在はトンネルとなっている。「四十曲」がいかにも峠の厳しさを象徴しているが、その由来はこの先の伯耆側の道筋だという。岡山県から山陰へと抜ける峠道は総じて、鳥取県側が急坂になっている。

もっとも出雲街道の峠はここではなく、もう少し北を通過している。そこには行かず、廃道マニアでもないのに、旧国道の荒れ具合が気になって長靴に履き替え、ここまでやってきた。峠の石柱は少々埋もれているが「県界 東宮殿下行啓記念 岡」「鳥取県日野郡根」「岡山県真庭郡新」「大正十五年五月」の文字を確認できる。

当時は鳥取県日野郡根雨町と岡山県真庭郡新庄村の境だった。大正十五年五月には東宮、後の昭和天皇が岡山、広島、山口の三県を行幸した。5月21日に宇野港に上陸した東宮は24日に岡山駅から広島県へと向かった。23日には県北津山も訪れている。「東宮殿下行啓記念」とは、このことを指しているのだろう。

「首切峠」から「四十曲峠」まで出雲街道を旅してきた。後鳥羽院や後醍醐帝が下ったのも、尼子氏が侵攻してきたのも、同じルートだったのだろう。道があるから歴史は動く。歴史を動かした古人は、何を思いながら歩んだことだろうか。


2021/04/06

2021/03/05

2021/02/19

2020/10/20

2020/08/25