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明治維新に向けての船出

昭和43年に当たる明治百年は、イケイケどんどんの高度成長期という背景もあって各地で盛大に祝福された。これに対して平成30年の百五十年は、そこまでの盛り上がりはなかった。明治維新に至る過程の暴力性が明らかになり、「勤王」という評価指標に疑問の目が向けられるようになったからだろう。

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鳥取県東伯郡湯梨浜町松崎の西向寺に「因幡勤王二十二士之碑」がある。昭和27年の建立である。

傍らの副碑に「勤王二十二士」の名前が刻まれ、うち12名には与えられた位階も示されている。さらに「義人」として親子2名(吉兵衛、忠次郎)の名があり、親は贈位されている。「勤皇」に励み「義」のために行動し、明治国家から功績を認められた人々のようだ。とのような人物なのか、副碑裏側の碑文を読むことにしよう。

文久三年攘夷親政の大詔煥発せらるゝや藩議二派に分る当時在京の勤王藩士等は藩主の側近を除くを急務なりとし廿二士を以て京都本國寺に於て之を決行し黒部等数士を斃せり此挙新庄は情報探索に出て還らず奥田は決行後自刃せり
家老職和田信旦は本國寺の挙に付き藩主の嫌疑を受けて解けず病と称して隠退後従四位を贈らる
二十士の鳥取を脱し長州に奔るや出雲国手結の浦にて復仇に遭ひ詫間太田吉田中野の四士之に斃る
天野屋吉兵衛は東伯郡橋津村の住人にして夙に勤王の志に篤く長男忠次郎は詫間樊六氏に就て剣道を修む
二十士が長州藩に脱走せんとする計画を聞きその全家財を投じて之を援助し其目的を達せしめたり
忠次郎は二十士と行を共にし手結の浦の変に斃れたり

二十二士のひとり山口謙之進についてはその墓を訪ね、「テロを引き起こした人心の分断」で本圀寺事件の経緯とともにレポートした。要するに、漸進派の黒部、高沢、早川、加藤の4人を君側の奸として、急進派の二十二士が殺害(加藤は自殺に追い込まれ、早川の従者藤井も巻き込まれて死亡)に及んだのである。二十二士のうち新庄は行方知れずになり、奥田は良心の呵責に耐えかねて自刃したため、二十士とも呼ばれる。

鳥取藩の自分手政治として松崎を任されていたのは家老の和田氏である。当主の邦之助信旦(のぶあき)は急進派と志を同じくしていた。二十二士の顕彰碑が西向寺に建てられたのは、この寺が和田氏にゆかりが深かったからだという。

文久三年(1863)8月の事件後、翌元治元年(64)8月に二十士は京都から伯耆黒坂に移され、翌二年(65)3月に鳥取に遷された。こうしているうちに長州と幕府の対立は激化し、慶応二年(66)の四境戦争では長州軍が幕府を撃破した。これに呼応しようと7月27日、二十士は鳥取を脱出し長州に向かった。

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湯梨浜町はわい長瀬に「因幡二十士乗船之地」と刻まれた記念碑(明治百年の昭和43年建立)があり、副碑には「因幡二十士」と「橋津志士」3名の氏名年齢が示されている。

二十士のうち河田精之丞は交渉役として上洛するため一行と別れ、残る十九士は鹿野から三徳を越えて橋津にたどりついた。橋津には心強い支援者がいた。素封家の中原吉兵衛、忠次郎親子、神主の田中邦十郎である。二十士のひとり詫間樊六は剣の達人であったが、忠次郎と邦十郎はその弟子であった。

因幡二十士19名と橋津志士3名、吉兵衛の家族3名と船頭2人、合わせて27名で船出し、美保関に向かった。一行は関詣りを名目としていた。7月29日のことである。

ここで吉兵衛は妻と女子を知人に託し、一行は船でさらに西に向かった。補給のため手結浦(たいのうら)に立ち寄ったはいいが、役人に怪しまれ足止めをくらう。そこで詫間ら志士4人と同志忠次郎が残留して交渉を続けることとなった。

二十士の鳥取脱出を伝え聞き、その後を追った人たちがいた。殺害された黒部ら4人の遺族18名が敵討に向かったのである。8月3日に手結浦に着くや志士の宿所を急襲し、見事本懐を遂げたのであった。巻き添えになった忠次郎は弱冠19歳だったという。

テロを起こした者が叙位、贈位され、秩序を守ろうとした者が評価されることはない。明治維新という革命はそういうものなのだ。そもそもテロと勤王は相容れない。天子さまはテロをお望みだっただろうか。公武合体派の孝明天皇の御心を慮れば、倒幕と勤王も相容れないのである。


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