興譲館高校は女子駅伝の強豪として知られているが、学校の淵源は幕末に遡る。令和3年の大河『青天を衝け』第18回の紀行で「興譲館」が紹介された。見ていないが、この回では渋沢栄一が備中の興譲館を訪ね、館長の阪谷朗廬(さかたにろうろ)と面会するシーンがあったようだ。
井原市西江原町に県指定史跡「興譲館」がある。写真は学校を象徴する校門である。右向こうに講堂が見える。
「興譲館」の扁額は渋沢栄一揮毫であり、「明治壬子六月」は明治45年6月のことだ。急速に普及しつつある新1万円札の顔、渋沢栄一にゆかりがあるとは誇らしいことだ。
興譲館の名称は、古賀謹一郎が残した揮毫に由来するという。謹一郎は茶渓と号し、洋学所や蕃書調所の頭取を務めた幕儒で、阪谷朗廬が師事した開明的な儒者侗庵の子である。また、譲を興すとは謙譲心を身に付けることを意味する。校門の左手にある説明板を読んでみよう。
岡山県指定史跡
興譲館
興譲館は、庶民の子弟の教育を目的として一橋家と郡内の有志が、西江原領内に、嘉永六年(一八五三)儒学者阪谷朗廬を招いて創設した郷校です。
県指定になっているのは、講堂と校門、そして紅梅の三つです。講堂(書斎付)は、建坪二五・五坪(書斎は四・五坪)本瓦葺き平屋建で、明治四十一年(一九〇八)に現在の場所に移転しました。
紅梅は、館祖阪谷朗廬の植えられたもので、紅梅としては古木で、毎年春には美しい花を咲かせています。
指定年月日 昭和三十四年三月二十七日
井原市教育委員会
ここには記されていないが、農兵募集のため渋沢栄一(当時は篤太夫)がこの地にやって来たのは慶応元年春。この地は御三卿一橋家の領地の一つであり、篤太夫は当時、一橋慶喜に仕えていた。慶喜は当時、禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)という立場にあったが、手兵を欠いていたため篤太夫が募兵にやってきたのだ。
さて、この興譲館ではどのような授業が行われていたのだろうか。岡山県教育会『岡山県教育史』上巻第四章「庶民の教育機関」第一節「代官及旗本の施設」四「西江原興譲館」には、次のように記されている。
授業ノ方法
順序ハ、毎朝早起師弟俱二講堂二会シ朝拝ノ礼ヲ行ヒ、然後白鹿洞学規ヲ同唱シ、次テ一六三八四九五十ノ日ハ講釈アリ、終テ朝食ニ就ク朝食後ハ毎日諸生ノ質問ヲ聴キ、次ニ素読ヲ授ク、午後又素読ヲ授ケ次テ一六三八四九五十日ハ輪講ヲ為サシム。休日ハ中元前後十日計リ越年二十日計リト毎月朔望五節句トナリ、授業時間ハ定限ナシ、席順ハ長幼ノ序ニ随フ等級ハ六等二分チ、進級ハ教授ノ見込ヲ以テ之ヲ定ム。講釈輪講ハ生員一同出席セシメ等ニ因リ別ニ科ヲ設ケズ、質問ハ一等二等生ノ分ハ教授之ヲ聴キ、三等四等五等生ノ分ハ一等生之ヲ聴キ二等生之ヲ助ク、素読ハ三等四等生ヨリ六等へ授ク、
塾生が唱えていた「白鹿洞学規(はくろくどうがっき)」とは何か。白鹿洞は南宋の朱熹が再建した書院で、その教育理念を示したのが「白鹿洞書院掲示」であり、白鹿洞の学規である。「父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信」という五倫などが示されており、これが興譲館建学の精神となっている。
「朋友に信有り」という。人間関係の基本は信頼である。信頼は人の言動により生じる。自分の言葉に嘘はつくまい、人を裏切るまい。誠実に生きることで、人の心は動く。それが信頼という関係なのである。
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