礫(れき)というのは、小石のことだろう。瓦礫とか砂礫とか、砕けたものをイメージするのが普通だ。ところが、広島県には「巨大礫」があるという。そもそも、巨大な小石という表現そのものが自家撞着であり、正確を期すならば「巨岩」と言うべきだろう。しかし、見ずしてあれこれ言うのは適当でない。まずは行ってみよう。
福山市山野町大字山野に県指定天然記念物の「上原谷石灰岩巨大礫」があり、「多祁伊奈太伎佐耶布都神社」が鎮座する。
巨岩という範疇に収まりきらない迫力だ。いったい何なんだ。まずは地学に関する説明板を読んでみよう。
中国自然步道
上原谷石灰岩巨大礫(うえはらだにせっかいがんきょだいれき)
広島県天然記念物
赤色の凝灰岩質礫岩の上に、驚異に値する巨大な石灰岩塊(高さ30m,幅33m,奥行35m以上)があり、この岩塊の下部はほら穴となり、天井から鐘乳石が垂れ、下から石筍も成長しています。このような巨大礫がここに存在するのは、この上の穴迫(あながさこ)に移動してきた石灰岩の地塊の一部が崩壊し転落したものであろうと推定されています。
ほら穴には、多祁伊奈太岐佐耶布都(たけのいなたきさやふつ)神社(岩屋権現)が祀られており、原始信仰の名残りをとどめています。
環境庁 広島県
まさに脅威である。穴迫とは、ここから南に登った台地にあった集落である。要するに、巨大な石灰岩の塊が上から転がり落ちてきたのだ。そこは、白亜紀の硯石層群と呼ばれる基質が赤色凝灰岩の石灰岩礫岩の中であった。このため、石灰岩の巨岩は硯石層群の中にある一つの礫と見なされたというわけだ。
この石灰岩の巨大礫は、おそらく秋吉帯に属するペルム紀付加体で、もとは暖かい太平洋にできたサンゴ礁だったのだろう。鍾乳洞が発達する秋吉台、帝釈台、阿哲台も同じ仲間で、ここでも鍾乳石の成長を見ることができる。
岩塊の下には「多祁伊奈太岐佐耶布都(たけいなだきさやふつ)神社」が鎮座する。岩穴宮とも岩屋権現ともいう。説明板を読んでみよう。
岩穴宮(天然記念物巨大礫)
本社は延喜式内社にして、俗に岩穴宮と呼ばれ、神社名は多祁伊奈太伎佐耶布都神社(タケイナダキサヤフツノジンジャ)と云ふ。大古素盞嗚尊が八岐の大蛇を斬り給ひし時、用ひたる剣を祠ったのが神社の始りと云。祭神は素盞嗚尊、奇稲田姫命。後、日本武尊が穴海の海賊を討ち追って当岩穴附近に於て平定されし故に同尊を合祠してある。摂社赤濱宮は稲田宿祢命を祭神とす。
此の洞窟全体が巨大礫であることが、広大の楠見、今村両教授により発見された。
山野観光協会
広島大学の今村外治先生と楠見久先生は地学や化石研究の権威で、今村氏は昭和35年、楠見氏は同50年に中国文化賞を受賞されている。
スサノオの剣といえば、ヤマタノオロチの尾から見つかった「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」が有名だが、こちらはオロチを斬った剣「天羽々斬(あめのはばきり)」である。この剣が祀られているというのか。
ヤマトタケルが穴海の海賊を討った話は、『日本書紀』巻第七景行紀に記されている。
廿七年冬十二月条
既にして海路より倭に還りて、吉備に到りて以て穴海を渡りたまふ。其の処に悪神有り。則ち殺しつ。亦難波に至る比に柏済(かしはのわたり)の悪神を殺しつ。
廿八年春二月条
廿八年春二月乙丑朔、日本武尊熊襲を平けし状を奏して曰く、臣、天皇の神霊に頼りて、兵を以て一挙、頓に熊襲の魁帥たる者を誅して、悉に其の国を平けつ。是を以て西州既に謐まりて、百姓無事なり。唯吉備の穴済(あなのわたり)神、難波の柏済神、皆害心有り。以て毒気を放ちて路人を苦ましむ、並に禍害の藪たり。故れ悉に其の悪神を殺して、並に水陸の径を開く。天皇是に於て日本武尊の功を美めたまひて、異愛みたまいき。
この穴海は現在の岡山平野とも福山市域の神辺平野とも言われている。山野の地域はかつて安那(やすな)郡であり、安那は「あな」と呼ばれていたようだ。穴海の海賊はこの地でヤマトタケルに討ち取られたのかもしれない。おそらくは巨大礫に行く手を阻まれ、進退窮まったのだろう。
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