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名は残らずともお墓は残る

古い墓はすべて「古墳」なのかと思ったら、そうではないようだ。古墳時代に造られたお墓を古墳という。いや古墳が造られた時代だから古墳時代と呼ぶのだと思うが、弥生時代のお墓は「墳丘墓」、中世以降のお墓は「墳墓」と呼んで区別している。

おなじ大昔でも、墳丘墓と古墳は特色が異なる。本日は墳丘墓の見学に出かけよう。

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三次市十日市町に国指定史跡の「花園遺跡」がある。

正面左右に広がる石の向こうが第1号墳丘墓、前後に連なる石の右側が第2墳丘墓である。それぞれ長方形をしており、第1号墳丘墓のほうがかなり大きい。古墳時代の前方後円墳と比べると地味で面白みに欠ける。もっとも、弔う人は面白さを追求しているわけではなく、死後の安寧を願っているのだから、とやかく批評するのは不謹慎であろう。

それでも弥生人の心性を探るには、古墳と比較対象しながら研究するのが手っ取り早い。花園の弥生人が造ったお墓にはどのような特色があるのだろう。説明板を読んでみよう。

史跡 花園遺跡
所在地 三次市十日市町字大久保
指定年月日 昭和53(1978)年1月27日
指定面積 2,352m
花園遺跡は、昭和52(1977)年から昭和54(1979)年に市の斎場の新築に伴い発掘調査が行われ、調査の結果、弥生時代中期から後期につくられた長方形墳丘墓2基、溝で区切られたA~Fの墓域6ヶ所が確認されました。
これらの遺跡からは、総数329基の主体部が確認されていますが、2基の墳丘墓とA号墓域は国の史跡指定に伴い、発掘調査は最小限にとどめられました。そのため未調査部分も残されており、本来の埋葬施設の総数は400基以上になると推定され、西日本でも有数の弥生時代墳墓であるといえます。

第1号墳丘墓
第1号墳丘墓は、丘陵の最高所(標高190m)に位置し、東西31.3m、南北19.8m、北辺の高さ1.3mの長方形台状の墓域で、南・北・東三辺には貼石や積石を施し、また南辺には浅い側溝を設けて視覚的に明確な墓域をつくり、その内部に土坑墓(木棺など)や石棺墓など215基以上の埋葬施設が集中しており、これらは弥生時代前期末から古墳時代初頭頃までの4段階で形成されていました。
遺物は、石棺墓からガラス製管玉13点のほか、第1墳丘墓の南辺を区画する溝から弥生時代後半の壺や器台形土器が出土しています。
古墳の葺石を思わせる第1号墳丘墓の貼石の雄大さは、墳墓群を造営した人々が、三次盆地内でも有力な集団であったことをうかがわせます。
平成24(2012)年3月
三次市教育委員会

第2号墳丘墓
第2号墳丘墓は、東西14.14 m、南北9.03 mで東・北及び西側は貼石、南側は列石で区画されていました。
墓域内から箱形石棺4基、土坑墓17基、円形遺構2基の存在が明らかとなり、各埋葬遺構の重複関係から4段階にわたる形成過程が確認されました。
遺物は、土坑墓付近から弥生時代後期前半の山陰系の鼓形器台などの土器が1点見つかっているのみで、こうした副葬品や土器の少なさは、弥生時代墳墓の特徴といえます。
第1号墳丘墓の北、第2号墳丘墓の東には、現状で土坑墓11基、石棺墓5基が発見されたA号墓域があります。
平成24(2012)年3月
三次市教育委員会

地味に見えるのは、副葬品や土器が少ないことによる。墳丘墓の雄大さが権力の大きさを物語るのは、古墳の場合と同じだ。地域最大の有力者集団だったのだろう。そして、この弥生墳丘墓は「西日本でも有数」と高く評価されている。

いつの時代にも人々は自らの文化を大切にしている。生き方そのものが文化なのだ。しかし、形のないものは残らないし、形があっても材質によっては消滅してしまう。文化の中でも比較的残りやすいのは、お墓だろう。人は死んだ後に何を残すのか。ひねりも何もないが、お墓である。


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