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明の国書を手にした大名

綾本墨書明王贈豊太閤冊封文(りょうほんぼくしょみんおうぞうほうたいこうさっぷうもん)という国の重要文化財がある。文禄の役の後に秀吉を激怒させたという明の国書である。超大国の威厳を見せつけるかのような堂々とした佇まいを見せている。

その内容が秀吉の期待とまったく異なっていたことから、無謀な戦争が継続されることとなる。個人の怒りが国益を損じた典型例だろう。その史料としての重要性、その美しさから重要文化財にふさわしい。

この重文は、どのように今日に伝わったのか。怒った秀吉は側近の堀尾吉晴に「そちにくれてやるわ」と国書を投げた。(本当に投げたかどうかは知らない。)吉晴はこれを大切にし、娘が石川忠総に嫁ぐ際に持参品としたという。国書は伊勢亀山藩主石川家、石川子爵家から戦後、民間人の手を経て大阪市の所有となった。

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安来市広瀬町富田の巌倉寺(いわくらじ)に「堀尾吉晴墓」がある。明の国書を所有した大名にふさわしい立派な構えをしている。

信長、秀吉、家康が強大な政権を樹立したことにより、彼らと地元を同じくする愛知県人が全国的に活躍した。前田家、丹羽家、本多家、榊原家…。我らが堀尾吉晴もそうだし、その娘が嫁いだ石川家も愛知出身である。近代は薩長の手で開かれ、近世は尾三の人々が築いたのである。吉晴はどのような人物だったのか、説明板を読んでみよう。

堀尾吉晴は、尾張国丹羽郡御供所村(愛知県丹羽郡大口町豊田)出身の武将。織田信長の家臣であった羽柴(豊臣)秀吉配下の武将として活躍し、後の豊臣政権においては、三中老の一人に任命されるなど、秀吉の信任が大変厚かった。
遠江国浜松(静岡県浜松市)城主時代の慶長四年(一五九九)に隠居し、息子の忠氏に家督を譲り、徳川家康から越前府中(福井県)に五万石を隠居料として与えられた。
慶長五年(一六○○)、忠氏が関ヶ原の戦いでの戦功を賞され、出雲・隠岐二十四万石の領主となった際、共に富田城に入城したが、慶長九年(一六〇四)に忠氏が急死したため、まだ幼小であった孫の忠晴の後見として政務に復帰した。
吉晴は松江城の築城と城下町の整備に着手し、慶長一六年(一六一一)松江城が完成すると、同年六十五才で没した。戒名は「法雲院殿前佩帯松庭世柏大居士」。遺骸は、遺言により当地に葬られたと伝わる。
この五輪塔は来待石製で、高さはおよそ3mを測り、来待石製五輪塔としては最大級のものである。空風輪・火輪・水輪・地輪の各石材の四方には薬研彫りによって梵字が刻まれている。
また、墓の前面には灯篭の基礎と見られる四角形の石柱があり、四方に仏像が陽刻されている。
平成二十二年三月 安来市教育委員会

吉晴が堀尾家の当主として采配を振るったのは浜松城主時代であり、月山富田城に入ったのは隠居後のことである。しかし吉晴に安穏とした隠居暮らしは待っていなかった。上記のように、将来を嘱望されていた息子忠氏の急死、幼い孫忠晴の後見、松江城の築城と心労、激務が続いたほかに、娘婿による御家騒動まで起きている。

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同じく巌倉寺に「小那姫の墓」がある。

「堀尾吉晴の次女」「廿原堤(はたちばらつつみ)神社祭神」とあるが、詳細が分からない。そこで、山中鹿介幸盛公顕彰会『出雲富田城史』を読んでみると、次のような記述が見つかった。

まず起こったのが慶長八年九月二十日、吉晴の次女小那姫の入水自殺事件である。(これは当地方に於ける伝承であり、二十原神社の由来でもある)小那姫は、生来の美貌であった。(兄の忠氏が当時並ぶ者なき美丈夫であったことが誌されている)妙齢になる頃から頻りに「こしけの病」を病み、苦痛に堪えられなかったばかりでなく、親の心配にも思い及び、芳紀二十の命を蕾のまま散らせてしまった。老境に近ずいた吉晴がこの薄幸な愛娘に注いだ悲嘆は察するに余りがあった。

忠氏の死の前年に娘が入水したのだという。吉晴の心痛や、如何許りであったか。こしけの病に苦しんだ小那姫を祀る廿原堤神社は、婦人病に効験あらたかだということだ。

ただ引用にあるように、小那姫の入水自殺事件は「当地方における伝承」だとされている。また、娘婿による御家騒動も真偽不明な点が多い。吉晴の不幸は少々盛られて伝えられているのかもしれない。子を亡くした親の掻き毟られるような辛さへの同情が、史実に尾鰭を付したのだろう。


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