「大坂幕府構想?」あったかもしれない別の歴史像が話題になったことがある。大坂城の再建担当となった小堀遠州が義父・藤堂高虎に宛てた寛永三(1626)年12月17日付の書状に「大坂ハゆく/\ハ御居城にも可被成所ニ御座候」とある。将軍の居城として整備している。つまり幕府が大坂に移転する見込みがあるというのだ。
茶道や作庭の文化人として著名な小堀遠州だが、幕府を支える有力大名として活躍していた。慶長九年(1604)から元和三年(1617)までは備中国奉行として備中松山城を預かっていた。その後河内国奉行に転出し、元和五年(1619)からは近江小室藩の藩主であった。とはいえ当時は伏見奉行として、藤堂高虎とともに大坂城の普請、特に造園に携わっていた。
井原市西江原町の甲山八幡宮境内に「石燈籠」がある。
自然石を使用した豪快な燈籠である。説明板を読んでみよう。
史跡 石燈籠
この石燈籠は慶長九年(一六〇四)小堀遠州政一が備中国の奉行となり、領内巡視の時、大患に罹り甲山八幡神社に祈願霊験を得て、今市、木之子渡し談議所(錦橋のたもと今市側)に建立されたものであると伝えられる。
また口碑によると、遠州が小田川畔の要所要所に石燈籠を設置し、高瀬船の上り下りの便を計った。その一つが、この石燈籠であるともいわれている。
昭和十三年、県道拡張工事の際に現在地に移転された。
平成十三年一月
西江原史跡顕彰会
小堀遠州ゆかりの石燈籠であった。豪壮な安土桃山の気風を示すかのように思えるが、遠州好みではなさそうだ。遠州燈籠はもっと形が整っており、これは野面燈籠ではないか。もとあった場所は、甲山から南東方面、小田川に架かる錦橋の左岸である。
文化人大名遠州は元和三年(1617)に備中を去り、近江小室藩も天明8年(1788)に第6代政方の時に改易となる。遠州の弟正行は慶長五年(1600)に後月郡のうちにおいて千石の采地を賜り、他の領地と合わせて三千石の旗本となった。その家系は正行、正十、政孝、正利、政郷、政報、政展、政弘、政徳、某、某、政恒、政休と続き、幕末に至る。(別冊歴史読本『徳川旗本八万騎人物系譜総覧』より)
小堀家は茶道流派の家元としても知られ、大名家の系譜を遠州流宗家、遠州の弟政行の流れを小堀遠州流、遠州の三男政尹の流れを大和遠州流と呼ぶようだ。
井原市神代町に「金切神社」が鎮座する。
社伝によれば、慶長六年(1601)小堀新助が検地中病に罹り、本社に祈願し、速やかに平癒したので祈願所と定められ、明治三年まで小堀家から毎年社米二斗の奉納があったという。
ここ神代町の地については、幕末の村落便覧『備中村鑑』に次のように記録されている。
小堀直次郎様 御陣屋なし
代官 平井八郎右衛門
三百九十三石七斗一升四合 後月郡東江原村 平井齢助
百五十二石四升六合 神代村 同人 笠原彌代吉
〆高 五百四十五石七斗六升
御高千石
この小堀直次郎様は、小堀政休、小堀遠州流十二世家元宗舟のことである。小堀遠州ゆかりの備中に、小堀家の領地は幕末まで存在した。茶道家元でもあったご領主さまは、地元氏神への社米奉納によって領民を慈しんでいた。
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