興味深いことに、聖徳太子ゆかりの寺が二つないし三つある。一つは606年創建で太子町鵤(いかるが)にある斑鳩寺(いかるがでら)、もう一つは589年創建で加古川市加古川町北在家にある鶴林寺。どちらも今も多くの信者、観光客が訪れる名刹である。
さらに加えて、明石市魚住町長坂寺(ちょうはんじ)にはかつて、長坂寺または長幡寺(ちょうまんじ)という597年創建の巨刹があり、28もの寺坊を有していたという。現在は遍照院(明石市魚住町長坂寺)と延命寺(明石市魚住町金ケ崎)が残るのみである。
明石市魚住町錦が丘三丁目に「小式部内侍の供養塔」がある。
周辺はすっかり住宅地になっており、わずかに残された緑地だけが昔の面影を伝えている。小式部内侍といえば「夭折の才媛ゆかりの井戸」で紹介したように、母和泉式部に先立って亡くなった才媛である。奥に見える標柱には、次のように記されている。
(右側)小式部内侍は、平安時代の歌人である和泉式部の娘。
(左側)和泉式部は、娘小式部が早世した後「小式部祈りの松」を一条院の庭から長坂寺に移し、僧寂心が塔をたてた。
簡潔に記されているが、面白さが伝わってこない。これは遍照院に伝えられた伝説である。明石史談会『明石史資料』大正14年の記述が参考になるので読んでみよう。
長坂寺の史蹟として注意すべきは、花山法皇書写山へ行幸の御途次立ち寄り玉ふ、元弘の頃後醍醐天皇輦輿を寄せ玉へり、今に御車寄せの松あり、当時は寂心上人住の事あり、寂心は性空と法弟の間なれば例の和泉式部が「くらきより」の歌を性空に贈りしことを脚色して、子の小式部を先きに死なした悲みに「あらざらん此の世の外の思ひ出に」の歌が世人の同情の的となって此歌は長坂寺で和泉式部が妙経の中の信解品を誦読して後に読んだ所が、香烟の中に朦朧として小式部の姿が現はれたといふのである、又小式部が一条の院の御園にありし松の枯れなんとせしとき、
理りや枯てはいかに姫小松 千代をは君にゆつるとおもへば
の歌を詠じたれば不思議や、松は緑の色を濃くして元の如くなりたり、此松を記念にし都より此の播磨へ移し植えたるもの、小式部の祈りの松といへり、明石侯松平忠国は遺蹟保存に忠実な人であった。
祈りの松の碑も建て又詠歌もある。
移しうえてしめゆふ岡の姫小松 今もいのらん代々の栄へを。
とある、さて此の松は巨樹で其枝東西十九間にまで繁茂してゐた、四十年前後に土地の人が乱暴にも伐り仆して薪とした、されど第一の下手人は死んださ伝へてゐる、樹下にある大五輪塔は小式部の菩提塔と伝へてゐるが、土地の人は腰痛の願をこめる、小式部が腰痛に訛った所が珍である、さて寂心上人が此所に居たことから、和泉式部書写詣での還りに立寄ったといふ伝説が生れたのである、
ここには3つのエピソードがある。長坂寺を訪れた失意の和泉式部が妙法蓮華経信解品第四を読むと、けむりの中に小式部の姿が現れたというのだ。続く、松を蘇生させた話には出典がある。御伽草子「小式部」(『近古小説新纂』より)では、次のように語られている。
然るに帝には、御寵愛の小松俄かに枯れけり。是を斜(なのめ)めならず御惜しみありて、神も草木も、歌の有に靡くなり。泉式部急ぎ召し上せて、松の祈りに歌を詠ませよとの御宣旨なりければ、小式部の内侍、さて丹後の国までは遥かの道の程なり。まづ/\身づから詠みて奉るべきよしを奏聞申す。さらば急ぎ/\詠みてみよと宣旨なりければ、小式部の内侍、
理(ことわり)や枯れてはいかに姫小松 千代をば君に譲ると思へば
とかやうに詠じければ、この松頻(しき)りに動き、やがて時の間に栄えてありければ、御感斜めならず、数々の御衣(みけし)を賜りける。或人讒(ざん)して曰く、この歌は、丹後より昨日人上りたりと聞こゆるよし、泉式部が詠みて上せけると申す。其よし御尋ねありければ、昨日夜に入りて、丹後より色々の物上せられけれども、急ぎの御召しに随ひて、文どもを見申さずと申して、
大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立
と詠じければ、御感ありて、其人をつかわせけり。
この「小式部」は紫式部、和泉式部、小式部内侍が祖母、母、娘の設定で、酒呑童子も登場する波瀾万丈の物語である。大江山の歌に伴うエピソードも本来とは全く異なるが、自由に使っている。
小式部が蘇生させた松は、母式部が譲り受けて播磨へ植え替えた。この松は大きく枝を広げるまでに生長したが、心無い者によって切り倒されたという。この木の下にあったのが「小式部内侍の供養塔」である。
だが、土地の人は才媛や歌物語に興味がないのか、腰痛の神様として信仰している。小式部の「こし」から「腰」を連想する掛詞というか駄洒落である。歌が上達するより腰痛が治る方が現実的なのだろう。腰は字面のとおり、身体の要なのだ。