三界は安きことなし、なお火宅の如し。衆苦充満して、甚だ怖畏すべし。常に生老病死の憂患あり。妙法蓮華経譬喩品第三の一節である。火宅とは実に言い得て妙で、私もまた先人と同じく燃え上がる炎を前に、「どうしよう、どうしよう」と右往左往するばかりだ。
死にたくはないし病気もいやだ。年老いるのは仕方ないが、衰えるのは寂しい。生きることに悩みはつきものだ。まさに衆苦充満。この世に極楽などない。かと思ったら、そうでもないようだ。
小野市河合西町に「河合西廃寺跡」がある。
八王子神社と薬師堂の境内が寺院跡と考えられている。標柱の解説を読んでみよう。
河合西廃寺跡
加古川流域は、古くから仏教文化が華開き、数多くの寺院が各地に建立されている。当八王子神社、薬師堂境内付近にも、平安時代末頃に建立された寺院があり、河合西廃寺跡と呼ばれている。寺の詳細は明らかではないが、建物の配置は前に池があることから、宇治・平等院と同じく本堂前に池を配する浄土伽藍形式と考えられる。死後の幸せを願う末法思想を信じた人びとが中心となって建立したものであろう。
時代は浄土信仰がさかんだった平安末、ここに浄土伽藍があったという。その特徴は池の存在だ。宇治の平等院でも平泉の毛越寺でも、池に建物や風景を映り込ませ美しさを演出している。河合西廃寺の池は今の鳥居の前にあったらしい。水はないが、それらしい窪地がある。水面には何が映り込んでいたのだろうか。
すぐ近くには中世城館堀井城跡があり、少し北の小野八ヶ池自然公園屋外コートのあたりの「河合中カケタ遺跡」では、竪穴住居や円形周溝墓が確認されている。『播磨国風土記』には「川合里」、『和名抄』には「川合郷」の記載がある。近代には加東郡河合村として行政単位を成していた。
人がいるから施設ができる。施設を核として人々が交流する。癒し、憧れ、願いを抱いて集まる人々の心の拠り所とされたのが、中央貴族も思いを寄せた浄土庭園であった。世も末だと信じられた末法の世、あの世ではなくこの世で極楽を味わいたい。誰もがそう願った。已に三界の火宅を離れて寂然として閑居し林野に安処せり。そんなイメージだったろう。
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