明智光秀が信長を弑逆したのは怨恨が原因との説は古くからある。歌舞伎の演目「時今也桔梗旗揚(ときはいまききょうのはたあげ)」では、恥辱に次ぐ恥辱に耐えかねた光秀が反逆を決意する姿が描かれた。時代を越えて通じる心情だけに分かりやすい。
赤松満祐が将軍義教を弑逆した嘉吉の乱も同じような描かれ方をしている。頼山陽『日本外史』巻之八足利氏正記足利氏中の記述を引用しよう。
満祐、形貌矮陋(けいばうわいろう)なり。義教、戯(たはむれ)に之を呼びて、三尺入道と曰ふ。満祐嘗て宴に侍し、醉ひて舞ふ。謠ひて曰く、「躯(み)矮なるも侮る勿れ。三国の主なり」と。義教愈(いよいよ)之を憎む。義教、猴(さる)を畜(か)ふ。満祐入る毎に、輒(すなは)ち人をして猴を放ちて其面を爬(か)かしむ。満祐、刀を抜きて之を斬り、心に深く義教を怨む。而して顔色に形はさず。
嘉吉の乱については過去の記事「凛とした首塚の静寂」「魂を鎮める奇祭」でも紹介している。前者は将軍義教の首塚、後者は今に伝わる鎮魂祭のレポートだ。本日採り上げるのは、首塚に埋葬される直前の経由地である。
小野市新部町(しんべちょう)に「河合城跡」がある。加古川に東条川が合流する地点だから河合というのだろう。
小高い地形さえない田園風景だが、本当に城があったのだろうか。説明板を読んでみよう。
河合城跡
別名「堀殿城(ほりとのじょう)」とも呼ばれ、室町時代に播磨守護職であった赤松氏の東播磨の拠点として築城されています。嘉吉元年(一四四一)の「嘉吉の乱」の時には、赤松満祐が将軍足利義教の首をもって入城したことでも知られています。東西約四百メートル、南北約三百メートルの城域を有する東播磨屈指の大城郭でしたが、ほ場整備事業等により、その景観は失われています。主郭部は「源氏屋敷」とよばれ、かつてはその周囲に土塁と堀が巡っていました。さらに堀の外側には、東の郭と西の郭があり、三つの郭から構成された平城であったようです。
当時、守護所があったのは、西に位置する坂本城であった。対する東の拠点が、ここ河合城。暗殺決行後、諸大名は様子伺いを極め込み、難を逃れた政権幹部は後継者を決めるのが精一杯の状況であった。このため満祐は自邸に火を放って、悠々と播磨へと下り河合城に入った。
そのあたりの様子を描いた『嘉吉物語』を読んでみよう。
去程に、赤松の一門、かくて有へき事ならす、うつてもなく敵もなし、さらは国へ下るへし、急きみな/\用意せよとて、御みつから酌をとり、さけをすゝめ給ひて、よろこひの中のなけき、なけきの中のよろこひとて、やかて屋形に火をがけ給へは、さすか薨をならへし、玉の宮殿楼閣も、一度に煙とたちあかりけれは、赤松の一門、都合其勢三百八拾九騎にて、馬をはやめてうち給ふ、先陣は浦上の四郎宗安、二番常陸彦五郎殿、三番は赤松伊予守、四番は赤松大膳大夫殿の御輿、五番には安積、青黄糸の腹まきに、同し毛の五枚甲の緒をしめ、ひやくたんみかきのすねあてに、くり毛なる馬にのり、かたしけなくも、将軍の御頸をさゝけて、笑を含て下りけれは、心なきものともは、あらさてこりの御ありさまや、あれをみよとて、さゝやきわらふもあり、又はあらあさましの御事やとて、涙をなかすものも有、人の心ほとまち/\なる物はなかりけり、さて一門みな/\御供申て、六番には彦二郎御曹司、七番は左馬助殿、八番は能登守、九番は喜多野兵庫、十番は中村弾正、都合其勢七百余人、西の洞院をくたりに、馬をはやめ、むちをすゝめ給ふほとに、程なく六月廿五日の午の刻に、はりまの国河合の堀殿の城につき給ふ。備前美作の御勢は申におよはす、国々の、大名小名のあつまり給ふ程に、七月廿四日の着到に、三千九百七騎とそしるされける、去間、御所様の御頸をは、安国寺にて御荼毗をめされけり、諸出家数百人御供にて、御たひの儀式おひたゝし、さる程に、赤松の大膳大夫殿、白しやうそくのひたゝれをめされて、三重に床をかきて、金地のにしきのうへに御くひをすへ、御まへにかしこまりて申させ給ふ様は、あかまつの一門、代々天下の御用にたち、むほんのともからをしつめて、ふたこゝろなく、奉公にくらからぬやから也、
将軍の首を取った赤松氏だったが、討伐の軍勢が来る様子もない。ならば播磨へ帰ろうと最後の酒宴を催し、笑いながら泣くような心持ちで屋敷に火をかければ、さすがの御殿も灰燼に帰した。赤松氏一門は389騎で十番までの隊列を組み、総勢700人余りで西洞院を後にした。四番隊は赤松大膳大夫満祐、五番隊は将軍を討ち取った安積行秀で、白檀磨の臑当で栗毛の馬に乗り、将軍の首を掲げて笑みを湛えながら進み姿に、京の人びとは「とうとう、このざまだ」と笑う者もあれば、突然の凶事に涙を流す者もいた。6月25日の昼に播磨の河合城に入ると播備作の国人が集結し、7月24日の記録には3907騎とある。この間、将軍の首は安国寺で荼毘に付され盛大な儀式が行われた。赤松氏当主、大膳大夫満祐殿が白装束の直垂を召し、煌びやかな祭壇に据えた御首の前でかしこまる様子は、さすが室町殿に忠義を尽くす家柄である。
小野市河合西町(かわいにしちょう)字構に「堀井城跡」がある。河合城とは異なり、イメージが湧きやすいように公園整備されている。
周囲に巡らされている土塁が、中世城館らしい景観を演出している。
堀井城跡(ほりいじょうあと)について
堀井城は、四方に堀・土塁を巡らせた典型的な中世の方形城館跡です。城の範囲は東西160m、南北200mと考えられています。公園として整備された主郭部の規模は東西80m、南北100mです。城の形は少し北西に歪んだ方形で、主郭との連絡は南側の中央に架けられた土橋1カ所だけになっています。主郭の周囲を巡る堀、土塁は明治年間に改変され、堀は、幅8~10m、深さ1.5m、土塁は、幅6m~14m、高さ1m~4mありましたが、築城時においての堀幅は狭く、土塁はもう少し高かったと考えられています。
築城の経緯については諸説があり、確かなことは分かっていませんが、室町時代に当地域を支配した赤松氏の家臣が居住した城と考えられています。
当地は、中世の京街道(京都-姫路)と加古川が交差し、軍事上重要な位置にあたりました。堀井城の南南東600mにある河合城は、1441(嘉吉元)年に赤松満祐が将軍足利義教を殺害した「嘉吉の乱」の際に将軍の首を持ち帰った城として知られています。堀井城の東600mにも小堀城があり、堀井城は小堀城と共に、赤松氏の東播磨支配の拠点的性格を持つ河合城の支城と考えられています(『小野市史第1巻』)。
なお、明治時代には現在の加古川線 (発足当時:播州鉄道)の発起人で、貴族院議員を務めた斯波興七郎氏が居住したことから地元では「斯波屋敷」とも呼ばれています。
小野市
要害でもないこの地に赤松氏の重要拠点があったのは、播磨守護所坂本城と京を結ぶ街道があったからだという。おそらく現在の国道372号のような道であろう。もう一つの支城、小堀城にも行ってみよう。
小野市河合中町に「小堀城跡」がある。
草叢に覆われているが、周囲より一段高いようだ。説明板を読んでみよう。
小堀城跡(こぼりじょうあと)
姫路から加古川を渡って京都へと向かう交通路の要所に築かれた中世の城跡です。東西250m、南北200mの範囲に広がる大規模な平城です。城の南側中央部には、幅8~10m、高さ2.5mの土塁が南北方向に60m続いており、土塁の東側を四方に囲んでいたようです。その区画へと入る通路や入口(虎口)も確認されています。この区画の北東にも一辺約80mの方形区画があり、周囲を囲む幅約8m、高さ約2mの土塁が認められます。城主は、赤松氏の一族とされる光枝(みつえだ)氏で、三木合戦時には当城を焼き払って三木城に籠り羽柴秀吉軍に対抗するも、平井山合戦で討死にしたとされています。
当城の南方約800mには河合城(新部町)、西方600mには堀井城(河合西町)と、100mを超える大規模な平城が近接して築かれており、その関係が注目されます。
(2017.10.1 河合中町作成)
河合城、堀井城と一体的に機能していた城である。ここでも京街道沿いとの立地に言及されている。私たちは姫路と京都とは新快速か新幹線が結ぶものと考えているが、この当時、大阪・神戸を通過しなければならない理由はない。
いったいなぜ、大膳大夫殿は謀反したのか。本能寺の変は怨恨説から世直し説まであり、日本史上最大の謎と呼ばれている。嘉吉の乱もまた同じ。もし信長の首が見つかっていたら、光秀はどのように扱っただろうか。大膳大夫殿の首供養は、真の弔意であったか、それともパフォーマンスであったか。