備中に福山という標高300m超の山があり、美しい山容を遠くからでも視認できる。山上の城跡については以前の記事「名を重んずる者をこそ人とは申せ」でレポートした。ここで合戦が行われたのは、北側に位置する山陽道の通過を阻止するためであった。
その福山の北尾根には170mの山が付属しており、そこにも城跡がある。山上は南北朝期、北尾根は戦国期に重要な役割を果たした山城である。本日は北尾根の城を訪ねよう。
清音ふるさとふれあい広場から幸山(こうざん)を目指し、南側の虎口から城跡に入る。振り返ると土塁で防御していることが分かる。この左手の土塁のほうが大きいが、木々に覆われてよく見えない。今立っている場所を「東曲輪」という。
東曲輪から西曲輪を見ている。幅の広い巨大な堀切のように見える。この先にあるのが西曲輪だ。
西曲輪に来た。総社市清音三因と西郡の境に市指定史跡の「幸山城跡」がある。「幸山城址」と刻まれた石碑がある。
山城の楽しみは眺望である。
北東方向を望んでいる。眼下を山陽道が通過している。この城の歴史を説明板に教えてもらおう。
幸山城跡(山手村指定史跡)
幸山城は別名を甲山城または高山城ともいう。福山の北登山道の中腹から別れた山塊(標高一六二m)に立地している。頂上からの展望は、東西ともに旧山陽道を一望におさめる要害である。鎌倉期の後半頃庄資房によって築城されたといわれる。その後、応永年間に石川氏の居城となった。細川氏の被官であり、また、吉備津神社の社務代である石川氏は備中南部での有力な武将であった。永禄十年(一五六七)の明禅寺合戦で石川久智は戦死した。その子久式の時、毛利氏と松山城主三村元親との戦乱にあたり、久式は義兄の元親を救援するため松山に出陣したが利あらず逃れて幸山城下に帰り自刀した。時に天正三年(一五七五)であった。かくして、毛利氏の領国支配のもとで清水宗治等が一時居城し、廃城となった。
この城の縄張りは、東の曲輪と西の曲輪とに別れている。福山の北西の中腹から大きな堀切を下りて急峻な斜面を登ると巨石がある。その巨石の所から東の曲輪の平担部が開けている。三ヶ月形の地形で南側が約四十m、東側が約五十m、北側は次第に傾斜して西曲輪との間の大きな堀切に続いている。南側と東側には土塁状の高まりがあり、場所によっては高さ二mもある所がある。西の曲輪との間の堀切は巾三十m深さ四mの大きなものである。西の曲輪は東西四十m×南北三十mの不整形な楕円状である。巨石が数個露呈している。南の端に低い土塁遺構が残っている。
平成6年3月
山手村教育委員会 山手村文化財保護委員会
城主として庄氏と石川氏、そして清水氏が登場した。庄氏と石川氏については分かりやすい史料がある。『吉備郡史』巻上第一編上古第九章仁徳天皇時代の吉備郡【吉備津宮関係資料】(六)賀夜氏古文書之写所収の応永三十三年(1426)正月の「吉備津宮正殿御遷宮次第」の一節である。
社務細川治部少輔兼守護社務代庄甲斐入道道充石川豊前入道道寿両代官同兼守護代
吉備津宮の社務職細川氏は備中守護であり、社務代の庄氏と石川氏は守護代であった。細川氏の勢力が強かったこの時代、庄氏は猿掛城を、石川氏は幸山城を拠点として地域を支配していた。庄氏は三村氏との抗争に敗れ、石川氏は三村氏に与して断絶の憂き目に遭う。石川氏の麾下にあった清水宗治は、幸山城から高松城へと移り、名を高松の苔に残して消え去った。
多くの人々が行き交った山陽道を見つめてきた幸山城。今、幸山と福山は歩きやすい山道で結ばれ、「幸福の小径」と呼ばれている。中世を求めて旅する者は、現代に生きる幸福を感じずにはいられないだろう。
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