山城探訪の最大の魅力は堀切にある。尾根筋を進撃する敵は、突然断ち切られる道に勢いを止めざるを得ない。山城攻防の最前線となるのが堀切なのである。ただし今、数百年の歳月を経て、堀切は築造当時の峻険さを失っていることが多い。しかし、備中猿掛城ではどうだろう。ロープがなくては登り降りできないほどの急斜面である。
倉敷市真備町妹(せ)と小田郡矢掛町横谷(よこだに)の境に「猿掛城跡」がある。倉敷市と矢掛町の史跡に指定されている。写真は真備側から写しており、右奥の二こぶは伽藍山城である。
私は真備側からアクセスし本丸に登った。6段に渡る連郭式の縄張で、最奥部に分厚い土塁があり、大堀切はその向こうにある。斜面の木々が視線を遮り、奈落へと続くかのようだ。その底に導くためのロープが垂れ下がっているので、そろりそろりと下りてみた。
巨大な、あまりにも巨大な堀切で守られた猿掛城の城主は誰なのか。そして、日本史の流れとどのように関わるのか。本丸にある説明板は、次のように語っている。
備中猿掛城址
猿掛城は真備町妹と矢掛町横谷にまたがる中世以来の山城である。猿掛城築城のはじまりは東国の武将・庄太郎家長がこの地に地頭として赴任した際に当初、幸山城(山手村所在)へ入ったが、防禦に不便として、元久二年(一二〇五年)ごろ猿掛山へ新城を築いて移ったことによる。
猿掛城は庄氏が三六六年間にわたり備中支配の拠点として利用した後、天正三年(一五七五年)に毛利元清が五千貫の領主として入城した。また、この城は天正十年(一五八二年)の高松城水攻めの際に毛利輝元の本陣となったことでも有名である。
関ヶ原の戦いで西軍が敗れたことにより、元清のあとを継承した毛利秀元が長府へ帰った後、慶長九年(一六〇四年)、猿掛城に花房志摩守正成が五千石で入城したが、元和元年(一六一五年)の一国一城令で廃城となり、元久以来の名城も四一〇年間で終局を迎えたといわれている。
矢掛町教育委員会
猿掛城跡へ登る会実行委員会
初代城主、庄家長が地頭赴任当初に入ったのは、幸山城だという。幸山城も猿掛城も山陽道に睨みを利かせる要衝である。そして元久二年とは、あの平賀朝雅擁立工作のあった年。武家政権の基盤は安定していると言い難い頃であった。長い歴史を誇る名城である。
真備側の登城口東方に琴弾岩があり、そこにも説明板が置かれている。
猿掛城跡
倉敷市指定史跡
小田川の右岸にそびえる猿掛山(標高230m)に築かれていた中世の連郭式山城遺構である。山頂の本丸跡には六壇からなる郭が南北に連なり、石垣・土塁・井戸・堀切・出丸などの遺構とともに、備中有数の山城の威容をよくとどめている。
山陽道の要衝に位置するこの城は、南北朝時代から室町時代にかけて備中で最も有力な国衆として活躍し、備中守護細川氏のもとで守護代をつとめた庄氏の居城であった。その後、天文22年(1553)頃から成羽城主三村氏の支配するところとなったが、天正3年(1575)に起った備中兵乱で三村氏が滅ぶと、毛利元就の六男元清が在城した。同10年、羽柴秀吉による高松城水攻めのときには、毛利勢の総大将毛利輝元が本陣を置いたこともある。その後、元清は茶臼山城(矢掛町東三成)を築いて移り、この城には重臣宍戸隆家を置いて守らせていたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の役後まもなく廃城となった。
昭和58年3月1日指定
倉敷市教育委員会
庄氏、三村氏、毛利氏という権勢の変遷が分かる。毛利輝元の本陣が置かれたことは、まさにこの城の拠点性を象徴している。真備側の登城口には、次のような説明板がある。
猿掛城跡
一、猿掛城跡は標高二三二米、山陽道を押さえる要害として重要でありました。
二、築城の年代については不明でありますが、武蔵国児玉党の旗頭、庄太郎家長が源頼朝より此地を宛行われ家長の後裔によって、戦国時代築かれたと思われ、代々庄氏が城主でありました。
三、天正三年(一五七五)毛利元清(元就四男)が城主となり天正十一年(一五八三)元清が中山城(矢掛)に移り廃城となりました。
倉敷市教育委員会
毛利元清は元就の四男とするのが通説だが、六男とするケースもある。この場合、毛利家家臣の二宮就辰と井上元勝を元就の落胤としているようだ。矢掛側の登城口には、次のような説明板がある。
矢掛町重要文化財
猿掛城跡(史跡)
指定日・平成八年四月一日
所在地・矢掛町大字横谷小字平林
築城年代については定かでないが武蔵国の武士・庄家長が源平合戦の軍功により備中の荘園を与えられ、この地に移り築城したと伝えられている。城の最盛期は庄元資のころであった。元資の後をついだ為資は備中松山城主となり猿掛城は一族に守らせた。その後一五七五年(天正三年)毛利元清が最後の城主として入城、在城となった。城は標高約二三〇Mの所にあり堀切・土塁・本丸・二~六の丸・寺丸・大夫丸等多くの遺構が残されており保存状態もよい。
矢掛町牧育委員会
築城者の庄家長の他に、元資、為資が登場した。城の最盛期は元資の時代で、庄氏の最盛期は備中松山城に進出した為資の時代である。
矢掛側から大手道を登ると、途中に「寺丸」という郭があり、説明板には次のように記されている。
寺丸の由来
延徳四年(一四九二年)、守護細川勝久が猿掛城を急襲した際、城主庄元資はかろうじて退避したが、永く庄氏を支援していた香西(かさい)五郎右衛門一統は孤軍奮闘したすえ、城中にて切腹して果ててしまった。庄元資は香西(かさい)五郎右衛門一統の功績を称え、その慰霊のためにこの寺丸を築き、位牌堂を建てて冥福を祈った。寺丸には今でも柱礎石、石垣基礎が残っている。
のち、庄氏は永正五年(一五〇八年)に山麓の椿原(つばきはら)に洞松寺(とうしょうじ)の末寺・見性寺(けんしょうじ)を建立し、寺丸の位牌を移してまつり、永く供養を怠らなかったという。
矢掛町教育委員会
猿掛城跡へ登る会実行委員会
元資の時代、備中守護家と戦って敗北し、ここで庄氏はいったん没落の憂目を見たようだ。盟友の香西氏とは細川京兆家の被官というつながりが考えられる。この頃、備中守護家細川勝久は京兆家管領細川政元と対立していた。ぐだぐだの戦国初期である。
大手道を登りきると「大夫丸」があり、説明板には次のように記されている。時代は戦国中期、戦国大名が台頭してきた頃である。
大夫丸(たゆうまる)の由来
天文二年(一五三三年)、猿掛城主の庄為資(しょうためすけ)は松山城へうつり、備中半国の領主として、勢威隆盛を極めた。その際、為資は一族の庄実近(しょうさねちか)を猿掛城の城代として置き、これを守らせた。天文二十二年(一五五三年)、毛利元春の援助を受けた三村元親軍と圧為資軍が猿掛城のふもと、現在の横谷・東三成で激突し、大合戦となった(猿掛合戦)。しかし毛利元春の調停により、庄と三村は講和し、翌天文二十三年(一五五四年)三村家親の長男の三村元祐(もとすけ)が庄為資の養子となった。三村元祐が猿掛城主として入城したので、城代の庄実近は城の北側の郭へ退隠し、この郭を大夫丸と公称したといわれている。
矢掛町教育委員会
猿掛城跡へ登る会実行委員会
尼子氏と結んで隆盛を極めた庄為資であったが、毛利氏幕下の三村氏と対立する。おそらくは三村氏優勢の状況で和睦し、三村家親の長男の元祐が庄氏を相続した。このため為資は大夫丸に隠居することになったのである。
さすがは歴史ある名城、さまざまな人物が登場しドラマが繰り広げられた。城主を時系列に整理してみよう。庄家長、元資、為資(城代:実近)、(三村)元祐、穂井田(毛利)元清(城代:宍戸隆家)、(毛利秀元)、花房正成となる。毛利元就の実子である元清が穂井田を名乗ったのは、地元の地名であり、庄氏の名乗りでもあったことによるのではないか。地元民の人心を掌握するねらいがあっただろう。
庄氏はどうなったのだろう。『高梁市史』によれば、松山城主庄為資は天文二十二年(1553)二月十五日に没し、その子高資が城主を継いだ。しかし、高資は元亀二年(1571)三村元親と毛利元清の連合軍に敗れ戦死、その子勝資は尼子氏を頼って出雲へ落ち延びたという。その後の庄氏について、『高梁市史』は次のように、説明している。
さて、毛利の主将輝元は、この斉田城の戦いに庄・植木の一党は、極めて勇敢であり、敵ながら天晴であった、現在勝資は出雲に走り浪人の様子であるが、これを召し返して児島麦飯山の攻略戦に先手をさせてはどうかということで、使者を派遣して召し返した。このため勝資らはようやく帰国、天正四年勝資は、植木秀長らの一党と共に麦飯山城主明石源三郎と戦い、鎗を執ってこれを突伏せたが、源三郎の手の者によって討死した。輝元はこの功に感じて、その子宮若丸に跡を立てさせたが、彼は朝鮮の役で戦死、勝資の弟資直が庄家の後を継ぎ、子孫は英賀郡津々村(現在の中井町津々)に住みついた。
この『高梁市史』の記述も鵜呑みにしてはならない。というのも以前の記事「謎の前哨戦、麦飯山の戦い(八浜合戦・上)」で指摘したように、天正四年に麦飯山で戦いがあったこと自体に疑義があるからだ。
ゆかりの城は「V字の大堀切で侵入を阻む」でもレポートしている。勝資は丸山城(真庭市下呰部)、宮若丸信資は高釣部城(真庭市上呰部)に居城し、その後裔は阿賀郡津々村で庄屋を務めた。荘家文書は貴重な古文書として今に伝えられているという。
猿掛城を拠点として備中に勢力を拡大した有力国人である。松山城へと進出した庄氏は戦国大名になる可能性もあったが、三村氏に敗れて以後は大きな歴史に呑み込まれていく。三村家から庄家に入った元祐は宇喜多勢と戦って討死し、三村氏自体も毛利氏に滅ぼされる。猿掛城や松山城は大名格の武将の居城となってしまい、庄氏が戻る場所ではなくなっていた。
猿掛城北端の大夫丸に立って庄氏を思えば、栄枯盛衰は夢の如し。築城以来、城を維持しようと代々の城主が掘り進めたのが、あの大堀切だ。それほどの要衝を早くから押さえた庄氏の先見に、改めて敬意を表する次第である。
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