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撫づとも尽きぬ巌なるらむ

近江の余呉湖、丹後の磯砂山(いさなごさん)の女池(めいけ)、駿河の三保松原。天女が水浴びをしたのは湖、池、海と様々に伝わっている。この羽衣伝説は日本各地どころか世界中にあるのだそうだ。

羽衣を隠して天女の気を引きたかったのかもしれないが、冷静に考えたら、他人様のものを盗み結婚まで強要するとはいかがなものか、という話だ。そんなことをするから、別れという報いがあったのかもしれない。

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鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石(うえし)に「羽衣石(はごろもいわ)」がある。余呉湖では衣掛柳、三保松原では羽衣の松と同様に、衣を掛けておいた場所である。

天女に会うためには、天に近付くかのような山路を登らねばならない。いったいどのような伝説なのだろうか、説明板を読んでみよう。

羽衣石(はごろもいわ)と羽衣伝説
昔、この山に美女が降り、大岩に羽衣を掛けて麓の池で入浴をしていました。
そこへ山里の農夫が通りかかり、羽衣を持ち去ってしまいました。天女はそれに気付き、羽衣を返してくれるよう願いましたが聞き入れてくれませんでした。
天女は羽衣がないので天上に帰ることができず、やむなく農夫の妻となりました。
後、二人の子供が産まれました。その子供に羽衣の隠し場所を聞き出し、羽衣をまとって天に昇っていったと言うことです。
子供は泣き悲しんで、太鼓と笛で音楽を奏で、天女を呼び戻そうとしましたが、ついに帰りませんでした。
その天女の降りた山を「羽衣石山」、太鼓や笛を鳴らした山を「打吹山」(倉吉市)と呼ぶようになったと言われています。
羽衣石(はごろもいし)の下に天女の祠を祀り、毎年5月5日を祭日としています。
平成16年1月製作

羽衣石山の後日談である打吹山の伝説については「伯耆守護家のふるさとの山」で紹介した。『伯耆民談記』巻之第十二河村郡古城之部「羽衣石山の事」と巻之第十五久米郡古城之部「倉吉の城山号の事附夕顔井の事」で紹介されているから、古くから知られていた伝説だ。

羽衣を奪ったのは説明板では農夫、民談記では羽衣石山で野夫、打吹山で田夫となっている。ところが「羽衣石山の事」の次項「南條家紋の事」には、興味深いことが記されている。

相伝ふ南條の太祖天女の羽衣をうばい、遂に夫婦となって二子を生ず、年経て後、天女二子を欺き羽衣を得たり、その時夕顔の蔓に手寄り、再び天上す、南條名残りを惜み、夕顔を以て家紋と定む

これは南條氏の家紋の由来に事寄せた始祖伝承である。我ら南條氏は天女の子孫なる名族なりと喧伝しているのだ。秀吉だって日輪の子なのだから問題ないだろう。羽衣石山にも打吹山にも南條氏の城がある。羽衣伝説は南條氏が流布したのかもしれない。

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羽衣石の近くに「天女のあしあと」がある。身軽な天女がタタッと駆け上ったような窪みがついている。では水浴びした場所はどこなのだろうか。

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羽衣石から山路を少し下ると分岐があり、「羽衣の池」を指し示す表示がある。ここをしばらく進むと「お茶の水の井戸」にたどりつく。先ほどの羽衣石で脱いだのでは、ちょっと距離が長すぎる。説明板を読んでみよう。

お茶の水の井戸
羽衣石城の貴重な飲料水として警備されていたもので、羽衣石南条記に「清水、北洞より湧き出、大旱魃といえども乾く事なし」と記されています。
「この井戸を汲み干すと大雨が降る」との言い伝えから、旱魃の年には下流の農民がやって来て、目的を果して帰ると言われています。
昔、天女がこの井戸で水浴している間に羽衣を農夫に奪われてしまった伝說は有名です。

水浴び場ではなく、実際には飲料水を確保するための井戸だったのだ。城兵だけでなく下流農民にとっても貴重な水源だったのだ。こうした水源にたいする信仰心も羽衣伝説を支えていたのかもしれない。

それにしても羽衣石は難読地名だ。山の上に石があるから「上石(うえいし)」と呼んでいたのを「羽衣石」としたのではと言われるが、『伯耆民談記』巻之第十二河村郡古城之部「羽衣石山の事」には、もっと風流な言い伝えが紹介されている。

扨此山を羽衣石と称する謂れとて伝ふ所あり、蓋し初は崩岩山と云ひしが、南條貞宗此山に始めて城を建つる時、崩岩の名を忌で『君が代は天の羽衣まれに着てなつとも尽ぬ巌なるらん』と云ふ古歌を取りて祝し羽衣石の山と改めしとかや

この歌は『拾遺和歌集』巻第五「賀」に収録されている。

二九九 題しらず よみ人しらず
君が代は天の羽衣まれにきて撫づとも尽きぬいはほなるらむ

まれにしかやって来ない天女が羽衣で岩を撫でたとしても、岩がすり減ることはありますまい。そのくらいこの御代は栄えますぞ。謡曲「羽衣」に登場する歌である。崩れるという字よりも、よほど縁起がいい。このことは車道の羽衣石城跡登山入口にある説明板にも記されている。

羽衣石山
標高三百八十メートルで急峻険阻なるこの山は、頂が平坦で広く、貞治五年(一三六六年)から慶長五年(一六〇〇年)までの約二百五十年間南条氏の居城として栄えました。
また、羽衣伝説の発祥地で伝説にまつわる遺跡が多く残っているこの山は、「崩巌山(つえしやま)と呼ばれていたが、南条氏築城の時、この名を嫌い古い歌から引用して「羽衣石山」と現在名に改めたと言われています。

崩巌山は民談記と少し表記が異なり「つえしやま」と読みまで示されている。「つえし」は点一つで「うえし」になるから、なんとなく理解できる。崩れるを意味する「つひゆ」から「つひえし山」、そして「つえし山」となったのかもしれない。

どこまでが事実でどこから伝説なのか分からなくなってくる。二つの世界が重なり合う部分を「あわい」と呼ぶ、と能楽師の安田登さんが言っていた。羽衣石の深山幽谷を巡っていると、まさにここが「あわい」で、どこかに異世界とつながる場所があるのでは、そんな思いがしてくるのだった。


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