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後鳥羽上皇脱出事件

『後鳥羽伝説殺人事件』という名作ミステリーは、繰り返しテレビドラマ化されてきた。後鳥羽上皇と備後地方にどのようなゆかりがあるのか。上皇の伝説を追う女性はなぜ殺されたのか。まさに、謎が謎よぶ殺人事件。ここに登場するのはパイプくわえた探偵ではなく、浅見光彦であった。

さあ、青い山に分け入って、御陵を訪ねることとしよう。

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三次市作木町大山に「後鳥羽院之墓」と刻まれた墓碑があり、門柱には「皇陵山」と表示されている。

本物の天皇陵は清らかで凛とした神道式だが、ここは和洋折衷でモダンな趣だ。なぜ、備後の地に御陵があるのだろうか。道端にある説明板を読んでみよう。

史跡 後鳥羽院御陵
承久の乱(1221年)に北条氏によって隠岐に流された後鳥羽天皇は、貞永3年(1234年)ひそかに現在の作木村香淀にうつられ、そののち延応元年(1239年)3月15日崩御され、御尊体は天王山に葬られ、また遺骨は川毛に納められたと伝えています。尚、川毛には「後鳥羽院尊儀」と刻まれた石碑もあります。
三次市教育委員会

後鳥羽帝が延応元年に亡くなったのは確かだが、伝説によれば、その5年前に隠岐から脱出して備後に隠れたという。ちなみに「貞永」は2年までしかなく、1234年は天福か文暦である。帝は貞永を使い続けることで、鎌倉に抵抗する意思表示をしたのだろうか。川毛の「後鳥羽院尊儀」にも行ってみよう。

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三次市作木町香淀に「後鳥羽院尊儀」と刻まれた石塔がある。

近世後半に普及した櫛型の石塔である。トンデモ史跡のようでありながら、古色蒼然とした墓石が古くからの後鳥羽信仰を語るかのようだ。石塔の手前に手書きの説明板がある。文字が抜けている箇所があるが気にせず読んでみよう。

後鳥羽尊儀
後鳥天皇は、承久の乱で隠岐に流され延応元年三月十五日に崩御されたと伝えらていますが、隠岐に移される際か、隠岐から逃れる際かはわからないがこの地で崩御されたと伝えられています。
ご遺体を清めるために江の川に見える大きな岩の上(夫婦岩)でゆかんをされと伝えられています。また上手の瀬の上にて村人が拝んだとされる地を拝原とされ、この後鳥羽尊儀の墓の前を馬に乗って通ると必ず落馬したと伝えられています。この墓はいつ頃から有るのかは分らないが想像では小さなものが有ったものを、この地の者が文久元年に建て替えたものではないかと思えます。
願主湧吉 施主代八、理作、信平、勢八(不明)
石工里平
と刻まれています。

文久元年は1861年。尊王の気運が盛り上がる幕末情勢の中で、幕府に抵抗する後鳥羽上皇が再評価されたのかもしれない。隠岐に移される際にこの地に留まったのはあり得ないから、やはり「貞永三年」に隠岐を脱出したのかもしれない。

江の川を挟んで対岸の安芸高田市高宮町佐々部の蓮照寺に「後鳥羽上皇坐像」があるそうだ。近くに旧三江線の「式敷駅」があったが、この式敷も上皇が訪れた際に使われた敷物に由来するという。説明板の内容を引用しておこう。

高宮町重要文化財
後鳥羽上皇坐像 有陵山 蓮照寺蔵
付 後鳥羽上皇位牌 大江(毛利)隆元位牌
後鳥羽上皇坐像は、制作年代・作者不明。高さ27センチ、寄木造りで、全体を艶消し黒漆で彩色している。請来の経緯は不明であるが、この地方に伝わる「後鳥羽院伝説」をうかがう資料として重要である。
「後鳥羽院伝説」には、隠岐へ配流の際の道筋にまつわる伝説と隠岐を脱出した後の生活伝説があるが、この地方のものは後者であり、数は少ない。
伝説の概要は次のとおりである。
隠岐を脱出した上皇は江の川をさかのぼり、大山村(現作木村大山)に行在所を設けて日を送っていたが、病気のため亡くなった。葬式をこの地であげ遺体を裏山に埋葬した。この山を有陵山という。
もとより史実と異なるが、この伝説は作木側に多くの痕跡を留めており、町域においては、当寺に安置する坐像と位牌のみで、他に例をみない。
「後鳥羽院尊儀」と記された位牌は、形状・材質等から、この種の類例の見られる江戸時代後期の制作と考えられる。対岸の作木村香淀に「文久元(一八六一)年六月之調」と記された墓碑があるが、これとの関連において検証する必要があろう。
当寺の由緒は、寺伝によれば、「毛利隆元急逝の地、和佐田(佐々部)蓮華寺の住僧が石見国邇摩郡久利村に移住、真宗に改宗した時をもって開基とし、その後、羽佐竹村(現高宮町羽佐竹)を経て、寛文十(一六七一)年現在地に移る」としている。
他に諸説があり、隆元の位牌の存在、蓮華寺との関連等不明な点が多い。
平成十四年三月二十五日
高宮町教育委員会 高宮町文化財保護審議会

なるほど江の川を遡れば内陸部への脱出が可能だ。火のないところに煙はのとおり、何らかの事実があったのかもしれない。しかし現実にはこの地には東国武士が新補地頭として来住しており、上皇安寧の地はどこにもなかったであろう。我こそは新島守よ、と誇り高く隠岐に向かった上皇は、島を守り抜いて島で眠っている。


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