「コンクリートから人へ」冷たく固い巨大な構造物と温かい血の流れる柔らかな命。政治が何を大切にするのかを見事に対比し、閉塞感に鬱々としていた国民の心を鷲掴みにしたスローガンである。2009年に政権交代を果たす民主党が打ち出した。
コンクリートの代表格がダムで、熊本県の川辺川ダムは白紙撤回になりそうだったが、2020年の豪雨災害で治水の必要性が高まり、建設に向けて動き出した。自然保護との兼ね合いは難しいが、減災に有効なのは確かである。
福山市神辺町西中条字トウトウ谷に「堂々川六番砂留」がある。幅56m、高さ13.3mという堂々たる遺構である。「堂々川砂留群」として国の登録有形文化財に指定されている。
砂留については、以前に「福山藩領は砂防ダムの先進地域」で別所砂留を紹介した。こちらは土木学会選奨土木遺産である。今後、国登録有形文化財を目指すということだ。別所十番砂留が発見されるまでは、堂々川六番砂留が最大の砂留として知られていた。
「水害と一揆を語り伝える石碑」で紹介したように、堂々川では延宝元年(1673年)5月14日、集中豪雨により上流の池が決壊して土石流が発生し、川下の村は大被害を被り、63人もの犠牲者が出る激甚災害となった。
土石流発生の背景には、森林破壊があった。福山城下町開府に伴う建築資材や松永塩田で使用する薪などで、木材需要が急増していた。山は保水力を失い、土は雨水とともに下流へと押し流された。度重なる災害を防ぐため、藩当局は堂々川に砂留を建設した。ここ六番砂留が完成したのは天保六年(1835)である。明治18年の『湯野村誌』には、次のように記されている。
砂留の最大なる近郷に稀少なるものは十七箇所あり内西中条村内にある堂々谷五番、六番、同鳶が迫、内広砂留の四箇所は修理の費用官に属し同村内にある淀が池東砂留、へゝり峠下砂留、獅子渡下砂留、大原池尻砂留、淀が池西砂留、及び本郡東中条村地内にある大原池内侍が谷砂留、同中山砂留、同駒が爪砂留の八箇所は昔時旧藩費を以て之を修む而して本村下御領村に於て専ら土砂流出の害を被るを以て工事は両村の負担とす
多くの砂留のおかげで下流の村の安心感は増した。いま、湯野及び下御領のあたりは新しい店が建ち並び、大きく発展を遂げている。改めて砂留を見てみよう。美しい石積みは現代のロックフィルダムを思い起こさせる。コンクリートから人へと言うが、人にコンクリの代わりは務まらない。コンクリートからロックフィルへ、これこそ温故知新のスローガンなのである。
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