「コンクリートから人へ」という情緒的なスローガンに、新たな時代の幕開けを期待した頃のことである。コンクリートの構造物は環境破壊の象徴のようなイメージがあった。砂防ダムなんぞはその最たるもので、山の中にいくつもコンクリートの塊が放置されているのを見ては嘆息していた。まさに無知の恥である。
砂防ダムは、川の流れを緩やかにし、土石流を防ぐ役割がある。上流側が土砂がいっぱいになったとしても、河川を緩勾配にする機能は維持されるのだ。山がちな我が国には、オランダ人デ・レーケが「これは川ではない、滝だ」と驚いたという急勾配が多い。自然災害を防ぐ有益な構造物である。
福山市芦田町福田に「別所砂留(べっしょすなどめ)」がある。写真は砂留群で最大の「別所十番砂留」である。水通部高さ17.62m、幅32.0mという規模である。2015年に土木学会選奨土木遺産に認定された。
案内図によれば砂留は36か所あり、うち14か所が整備されて見学できる。私は岩角山縦走路から急斜面を下って砂留群へ入り、13,14,10,8,7…と、番号をほぼ逆順に見学した。登山道入口に説明板があるので読んでみよう。
別所砂留
「小屋ヶ谷ひな浦山」あるいは「十三ヶ所」と呼ばれていたこの地には、近くに比類ない「砂留め」が原型にちかい状態で残されている。
「ひな浦」は山の北側斜面を「十三」は砂留めの数を示すことばである。
また、「別所」は支配地内の保護区域、化粧料地・隠居地・庵の周辺などを表し、池の近くの「垣手」の地字地名とともに中世初期の開発をうかがわせる。
この地方は江戸時代中期から干害、冷害、虫害など続いて農業の生産力が低下する。生産力の確保のため取られた方法が土砂の流失を防ぐ「砂留め」工事である。
「ひな浦山」の表面は粘土が多く含まれ土砂が滑りやすい。打ち続く土石流を防ぐため谷間の石を集め「切り込み接ぎ」「石垣積み」の方法で大小二十七ヶ所の「砂留め」が作られ、工事中の享保七(一七二二)年の記録には管理を担当する者の名が残された。
木々に埋もれる「別所砂留」は今も使命を担い続けており、福田史跡探訪会が始めた保護活動は、まちづくり推進委員会に引継がれ、今、学区民全体で古人の叡智の復活と未来への伝達に取り組みを進めている。
二〇一三年(平成二十五年)十一月 福山あしな商工会青年部
こうした活動があってこその土木遺産認定である。文化財の価値は、それを守り伝える人によって生み出されるのだ。同じ場所に土木遺産認定後に設置された案内図があり、十番砂留について次のように説明している。
10番砂留
「近世以前の土木・産業遺産」の評価によると、【江戸期の砂留の中で、最も高い堰堤、堰堤の天端(てんぱ)が緩やかなアーチ状、堰堤のほぼ全幅が越流部になっていて、自然の勾配に沿って石が敷かれている】と記載があり、高く評価されています。※建設当時と形がほぼ変わっていない。
福相学区まちづくり推進員会 別所砂留を守る会
我が国のいたるところ急流はあれど、そこに砂留があるとは限らない。福山市域にはとりわけ多く、福山藩による治山・治水事業がいかに先進的であったかを物語っている。砂防を軽んじていた私は、おのれの不明を恥じるばかりであった。
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