中河与一「天の夕顔」は永井荷風やアルベール・カミュが絶賛したという浪漫主義文学の名作である。文学碑は富山県の有峰林道大多和線の終点、大多和峠にある。「夜布かきや末のい保里にゆ免さめて曽羅わたる月をきゆるまでみし 中河与一」と刻まれているそうだ。万葉集に造詣の深い与一らしい文学碑である。
岡山市東区瀬戸町大内の大内公民館に「中河与一歌碑」がある。
新感覚派の作家中河与一が長命で亡くなったのが平成6年。「天の夕顔」モデル問題については詳しく知らなかったが、何らかのトラブルに遭遇した作家という印象が確かにあった。歌碑には次のように刻まれている。
ふた葉より香しといふ栴檀の
ひともとあ里し庭を忘れず 与一
「ひともと」という表現を久しぶりに聞いた。そういえば、そんな美しい表現があったな。ひともとの栴檀の樹がある庭が、強く印象に残っているようだ。その辺りの事情については副碑に詳しい。読んでみよう。
東京生れの文豪中河与一先生は幼少の頃病弱だったため
六才の時母の里である当地に転居され大内小学校に学ば
れた。想うにこの素晴らしい山紫水明の地は健康の保
持増進と豊かな詩情を育まれるにふさわしい絶好の
場であったのであろう。天性の文才と先生の御努力により
世界的名作〝天の夕顔〟を発表されたのも「宜べなるかな」
と思われる。私達は大先輩である先生を慕い郷土の誇り
として顕彰し永く伝えようとするものである。
平成元年四月二十五日
中河与一文学碑建立委員会
東京で生まれたというが、実家は坂出市である。それゆえか、坂出市内の児童生徒を対象にした中河与一文芸賞というのが存在する。ここ大内の地には母の実家があり、転地療養で預けられた与一は、明治36年から4年間大内尋常小学校に通った。思い出の栴檀の樹は実家の庭かと思ったら、校庭にあったということだ。ちなみに、大内小学校は昭和30年に千種小学校に統合された。
眼前を大河吉井川が滔々と流れ、向こうに霊峰熊山山塊を望む山紫水明の地。この風景を見て心動かさない者はいないだろう。と言うものの、県道252号万富吉井線を総合運動公園か瀬戸ICへと急ぐばかりで、便利な道だなと思うくらいが精々だ。
道沿いに「中河与一文学碑」との案内表示がある。次の通った時にはせめて、文豪の詩情を育んだひともとの栴檀の樹を思い出すようにしたい。私の小学校卒業文集のタイトルは「くすの木」だったように思う。運動場に大楠があってポコペンなどをしていた。学校の思い出はいつも樹木とともによみがえってくる。