「さすがご隠居、無駄に鳥居の数をくぐっちゃいないねエ」八っつぁんがご隠居の知恵に感心している。人の情けや人生の機微を知る人には学ぶことが多い。この場合、鳥居をくぐるのは歳を重ねることを意味している。
ところで、人が鳥居をくぐるようになったのは、いつからだろうか。日本最古の石造鳥居は、山形市鳥居ケ丘の「元木の石鳥居」や同市蔵王成沢の「八幡神社鳥居」だそうで、その古さは平安時代までさかのぼることができる。
岡山市北区下足守に「八幡神社鳥居」がある。山形市の鳥居と同じく国指定重要文化財である。
どっしりとした感じの山形市の鳥居に対して、こちらはスタイリッシュで建立年代が新しいように見える。ところが、備中足守の鳥居もある意味、日本最古だという。どういうことか、説明板を読んでみよう。
葦守八幡神社の鳥居は安芸の宮島の大鳥居と同様に、明神鳥居の柱の基部に稚児柱を伴う両部鳥居であり、石鳥居のこの形式のものはめずらしい。花崗岩製で、高さ四・三メートル、柱の真々間三・四メートルを計り、柱が太く、低目ぎみに見える時代的特徴を示している。
向って右側の柱の内側に「康安元年辛丑十月二日願主神主賀陽重人(中央)、大工沙弥妙阿(右)、祝主僧頼澄(左)」の刻銘があり、一三六一年(南北朝時代)の造立と判明している。大工の「妙阿」は、この鳥居より十五年前に建立された鼓神社宝塔(国指定重文・上高田所在)の石大工と同一人物であり注目される。
この鳥居は、在銘の石鳥居としては最古の部類にはいり、この時代のほぼ完全な姿を伝える全国的にも貴重なものである。
昭和六三年三月 岡山市教育委員会
紀年銘がある遺物は、当時の状況を語る歴史の証人であり、文化財としての価値は高い。その最古例は「青龍三年」銘の「方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)」で、年号は西暦235年に相当する。卑弥呼が魏から銅鏡百枚を与えられたのが239年だから、その関連が注目されている。
鳥居の柱をよく観察すると、長い歳月の風化に耐えた「康安」の文字を確認できる。康安は北朝の年号で、天皇は後光厳天皇、将軍は足利義詮であった。当時の足守には、神護寺領の荘園「足守荘」があり、地元の賀陽(かや)氏という豪族が荘官を務めていた。
康安には元年と二年しかない。西暦では1361~2年である。その頃の様子を記した記事が「南朝武将は勤皇家?」「四国の中心都市(中世編)」である。南北朝の対立と幕府の内訌が複雑に絡み合いながら戦乱が続いていた。
そして、我が国の宿命である自然災害も発生している。康安地震(正平地震)という南海トラフを震源とする巨大地震である。時は康安元年(正平十六年、1361)6月24日、大津波が阿波に甚大な被害がもたらした。
備中足守でも揺れは激しかっただろう。鳥居の建立にも、心理的に何らかの影響を与えたのではないか。戦乱の終息と震災からの復興を願う気持ちが、この鳥居に込められている。康安の昔も平成の今も、安寧な世を実現するための祈りは変わらないだろう。
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