四国の中心都市はどこか、という議論がある。人口では松山市が最大である。高等裁判所は高松市にある。四国電力の本社は高松市にある。どちらも、中国地方の広島市のように、名と実を備えた中心都市と呼べないのだ。
四国中央市だという主張は、あえてスルーしておこう。今日は、かつての四国の中心都市を紹介する記事である。
香川県綾歌郡宇多津町1269の寳塔山多聞寺(ぜんにちざんたもんじ)の山門前に、「史跡 讃岐守護所跡」の説明板がある。
讃岐守護所という名称から、讃岐の中心地だということはすぐに分かる。しかしどうやら、守護所の主の勢力範囲は、讃岐一国にとどまらないようだ。説明文を読んでみよう。
この多聞寺の寺域一帯は、隣接する圓通寺周辺とともに、室町幕府の管領細川頼之公の館跡である。
公はこの館を守護所と定め、自ら讃岐及び土佐両国の守護としての領国経営を行うとともに、四国管領として一族を統轄(とうかつ)し、阿波・淡路・伊豫(二郡)の経営も併せて行っている。
当時の宇多津町は多くの寺院が建ち並び、宗教や文化の町、さらに港町・商工業の町としても急速に発展しており、公の卓絶した経綸のほどが偲ばれる。
平成四年三月二日
細川頼之公顕彰委員会
ここは、四国管領と呼ばれた細川頼之の館跡である。文化的にも経済的にも豊かな町だったという。名実ともに中世四国の中心地である。
貞治6年(1367)に室町幕府の管領に就任し、未成年の将軍、足利義満を支え、幕府政治の基礎を固めた有名守護大名である。
多聞寺には町指定天然記念物の「槙柏(しんぱく)の木」がある。これも頼之公に関わりがある。宇多津町教育委員会の説明板を読んでみよう。
この槙柏は幹囲四・六m、樹高十八mで地上七mから、五つの支幹に分かれている。
細川頼之公の御手植の柏と伝えられ、一名神柏とも言い、正月には拝む人も多かったと伝えられる。
槙柏はイブキの仲間でミヤマビャクシンともいう。昭和47年制作の説明板には、樹齢650年と記されている。
頼之公は、本尊の毘沙門天に武運長久と戦勝を祈願し、四国平定を果たしたと伝えられている。
さて、多聞寺の隣に青松山観音院圓通寺(せいしょうざんかんおんいんえんつうじ)があり、境内に「細川頼之公館跡」の石碑がある。所在地は宇多津町1263である。多聞寺の説明板が語るように、多聞寺も圓通寺も室町幕府の管領細川頼之公の館跡である。
境内に優美な形態の五輪塔がある。町指定有形文化財である。14世紀後半の造立で細川家の供養塔ということだ。
そして、境内の中央に「天然記念物 圓通寺の松跡」という石碑がある。頼之公の御手植と伝えられた黒松で県指定天然記念物だった。ところが、惜しいかな、松くい虫にやられ平成14年4月に伐採されてしまった。
かつての雄姿は下の写真から想像するしかない。これも細川頼之公を偲ぶよすがである。
武将としての頼之公を伝えるのが、以前にレポートした「細川将軍戦跡碑」である。もっとも、この史跡は北朝の頼之公の敵方、南朝の細川清氏を顕彰したものである。勝利したのは当然、頼之公であった。康安2年(1362)のことである。
将軍義満を支えてきた頼之公であったが、康暦元年(1379)閏4月14日に斯波氏を中心とした反対勢力により、中央政界を追われることとなる。クーデターによる首相追放のようなものである。
頼之公は本拠地の讃岐へ落ち、その途次に出家した。このことを吟じたのが、有名な漢詩「海南行(かいなんこう)」である。
人生五十愧無功
花木春過夏已中
滿室蒼蠅掃難去
起尋禪榻臥淸風
人生五十 功無きを愧(は)ず
花木(かぼく) 春過ぎて 夏已(すで)に中ばなり
満室の蒼蝿(そうよう) 掃(はら)えども去り難し
起って禅榻(ぜんとう)を尋ねて 清風(せいふう)に臥(が)せん
50歳っつっても恥ずかしながら何の手柄もない。時の経つのは早いものだ。
色鮮やかな春は過ぎて、夏ももう半ばになってしまった。
部屋のハエがうるさい。追い払ってもまたやってくる。
こんなとこは立ち去って、禅寺を訪ね、涼しい風に吹かれながら横になるとするか。
今の幕府には、ハエのようなうっとうしい連中がいっぱいだ。
讃岐へ帰って穏やかに過ごすこととしよう。
名吟である。「人生五十 功無きを愧ず」は、私を含めて他人事とは思えない人も多かろう。織田信長が好んだ「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり」もいいが、様々な業績を残してきた者だからこその感慨である。
それから10年。康応元年(1389)のこと、かつて頼之の追放に同意した足利義満は、厳島参詣の途次、宇多津へ立ち寄った。恩讐を越えて再会した二人は旧交を温め、信頼関係を回復したのである。中世四国の中心都市・宇多津は、征夷大将軍も訪れた政治都市であった。
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