歴史は語る人があってこそ存在する。私たちは日々歴史を生きているわけだが、見聞きしたことをすべて叙述しようとは思わない。であれば、語られることのなかった数多の歴史が存在することだろう。
本日は語る人あればこその貴重な出来事を紹介する。延宝の大水害と明和一揆である。近世の出来事だが、近代になって篤志の郷土史家が石碑を建立した。おかげで私たちは、その一大事を認知できることになったのである。
福山市神辺町下御領の備後国分寺に「延宝の水害供養塔」がある。写真では一番背の高い石塔である。
このような内陸部の山裾で水害とはどういうことか。国分寺境内の西側が高くなっているから上がってみると、川の堤防であった。典型的な天井川で、その名を堂々川という。水の流れは少ないが、何か関係あるのだろうか。
古い供養塔では刻字が判読できない場合が多いが、この石塔ではありがたいことに、向かい側に立つ説明板に翻刻されている。
延宝水害溺死六十三霊の供養塔
南面 延寶元年溺死六十三霊二百五十回諱供塔
西面 定生極樂上品蓮臺成上覺
南面 菩提行願不退轉引導三有及法界
北面 大正十一年皐月施主土肥七郎建之
見た目はずいぶん古く感じるが、大正十一年(1922)とあるからずいぶん新しい。延宝元年(1673)に63名が溺死した水害があった。1922-1673+1=250だから、この年は250回忌に当たる。説明板には次のように記されている。
延宝の水害供養塔
備後國分寺寺域の一角に、大正11年に土肥七郎氏による延宝の大水害の犠牲者63人の供養塔があります。
江戸時代の初期、延宝元年(1673年)5月14日、この地方は集中豪雨に襲われ上流の池が決壊、堂々川が氾濫し川下の村は大被害となり、63人もの犠牲者が出る大災害となりました。この洪水で広大な寺院であった備後國分寺の伽藍も流出し、田畑には1メートル以上の土砂が堆積しました。福山藩はこれを教訓として、土砂対策として石積みの砂防堰提「砂留」の建設に力を注ぐことになり、堂々川に16基も作りました。なお、2006年(平成18年)には中流域の砂留8基が国の登録有形文化財に指定されました。
平成29年3月
神辺ふるさと会
旧暦5月14日は今の6月28日で、まさに梅雨の真っただ中であった。決壊したのは堂々川上流の大原池。この池については今も福山市がハザードマップを作成し、日頃からの備えを促している。決壊後30分で土石流が平野部に達するようだ。
この日の豪雨災害は西日本一帯で発生していた。試みに手元の岡山文庫142蓬郷巌『岡山の災害』を開けば、次のような記録が見つかった。
延宝元年(一六七三)五月十二日から降りつづいた雨は、十四日には豪雨となり、旭川の増水位は五mに達し、岡山城本丸も浸水する災害となった。
この豪雨により岡山藩内では88人の死者が出たという。四国災害アーカイブスというサイトで検索すると、愛媛県や香川県の各地で記録された被害も知ることができる。
ここ福山藩では、対策として砂防堰提「砂留」の建設を行うことになるのだが、そのレポートはまたの機会にしよう。次は義民碑である。凶作や重税から起こる一揆もまた、根本的な要因は自然災害である場合が多い。
「延宝の水害供養塔」の右側に「好右衛門義挙碑」がある。好右衛門という義民を顕彰している。どのような人なのか、碑の裏面に刻まれた文字が、説明板に翻刻されている。
好右衛門義舉碑
下御領村組頭渡部好右衛門父曰重兵衛住田村資性剛直頗有才略安永元年壬辰秋憤里正之苛征不能自止進而訴緩事干福山藩廳救小民之困憊而為群憸所中身繋縲絏二年二月十三日移神幽界時年五十二法號節生蓮意葬於寒水寺吁凌霜侵雪救民窮苦霊德昭著百世無亡
昭和四年七月彫貞石以傳干後 土肥政長建之好右衛門(1721~1772)義舉碑
下御領村組頭の渡部好右衛門、父重兵衛と曰う。田村に住し、資性剛直、頗る才略を有す。安永元年壬辰(みずのえたつ、1772年)秋、里正憤り、之苛征自ら止むこと能わず、進み訴え福山藩庁において穏やかに事(おさむ)る。小民を救わんと之困憊して群憸たる所中に身を縲絏(るいせつ)に繋ぐ。二年の二月十三日、幽界に神を移す。時に年五十二、法号は節生蓮意、寒水寺において葬る。吁(ああ)凌霜の雪を侵し、救民に窮苦する霊徳、昭著にして百世に亡ぶる無し。
昭和四年(1929年)七月、貞石を彫り、以て後に伝う。土肥政長、之を建つ。
昭和四年(1929)の建立というから、ずいぶん新しい。だが、その内容はずいぶん格調が高く、難解である。意訳してみよう。
下御領村の組頭、渡部好右衛門、父は重兵衛。田村(字名)に住み、剛直にして才略がある。安永元年(1772)秋、村役人の不正への憤りが収まらず、福山藩庁に進み訴え、穏やかに事を収めようとした。人々の苦しみを救うため徒党を組み、獄につながれるところとなり、安永二年二月十三日に亡くなった。法号は節生蓮意、寒水寺に葬られた。困難なこともあえて行う覚悟で困窮する民衆を救った優れた徳は明らかであり、いつの世までも語り伝えられるであろう。
安永元年(1772)の夏には台風が襲来し、明和八年(1771)は大旱魃に見舞われていた。人々の困窮が深まり、一揆へと事態が動いたのだろうか。説明板を読んでみよう。
明和一揆の義民・渡辺好右衛門
明和6年(1769年)の秋から翌年にかけて、福山領は天候不順による大凶作と重税により、飢餓人が出るほどの苛酷な状況に置かれ、窮乏に耐えかねた農民たちによって明和一揆が勃発しました。
その際、福山領6郡すべての農民たちの信頼を得た指導者の一人が下御領村組頭の渡辺好右衛門です。農民たちの要求は大半が認められましたが、幕府の発令した一揆弾圧令により、首謀者とされた好右衛門と下竹田村の定藤仙助、北川六右衛門の3人が打ち首、獄門の刑に処せられました。
明正寺(上御領)の過去帳には、法名とともに、好右衛門、仙助のいずれも「安永2年2月13日」の同日に歿した記載があります。好右衛門の墓は寒水寺にあると伝えられてきましたが、残念ながら現在、特定できていません。
なお好右衛門については、昭和4年に土肥七郎(政長)氏によって備後國分寺域に建立された好右衛門義挙碑があり、その霊徳を顕彰しています。
平成29年3月
神辺ふるさと会
明和六年(1769)から翌七年(1770)にかけて大凶作だったという。どうやら一揆は七年八月に発生したようだ。以前の記事「大旱魃がもたらした小作騒動」で言及している安那郡の農民が起こした一揆のことだろう。
当時の藩主は福山藩阿部家第4代阿部正倫(まさとも)であった。一揆の前年に襲封したばかりで、藩政はなかなか安定しなかった。天明六年(1786)には再び一揆が勃発するなど、苦労が多かったようだ。正倫は名老中正弘の祖父に当たる。
税と米と人心の安定は、この時代も今もホットな話題である。現代の米将軍小泉進次郎農相は備蓄米を随意契約で安売りすることに成功した。消費税を下げよとの声が高まっているが、石破茂首相は否定的だ。内閣不信任案という国会一揆を起こすか否か、立憲民主党に迷いがあるようだ。夏の参院選に向けて、それぞれの思惑が錯綜している。
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