古代史上最大の謎は邪馬台国だと書いたが、銅鐸がなぜ埋められたのかも大きな謎である。場所はムラから離れた小高い丘陵の斜面で、埋められ方には規則性がある。埋納の時期は1世紀初めごろと2世紀後半~3世紀前半ごろの二回だとされる。これは、いったい何を意味しているのか。政治的な大きな変動があったのだろうか。漢王朝の興亡と関係はないのか。
丹波市春日町野上野(のこの)字野々間に「野々間遺跡(銅鐸出土地)」がある。県の史跡に指定されている。史跡名と「昭和五十六年十一月出土」と記された木製標柱が朽ちて倒れており、銅鐸の見つかった場所はイラストで示されている。表示がなければ誰も遺跡だと思わないだろう。
お約束どおり小高い丘陵の斜面に埋められていたようだ。遺跡への入口にある説明板を読んでみよう。
昭和56年11月1日、この野々間遺跡から1号銅鐸(外縁付鈕Ⅱ式四区画袈裟襷文銅鐸)が自然薯(じねんじょ)採取中に偶然発見された。また同年12月23日、先に出土した1号銅鐸の1.8メートル西方より2号銅鐸(扁平鈕式四区画袈裟襷文銅鐸)が埋納されたままの状態で発見された。
丹波地方における銅鐸の出土は文久元年(1861)京都府北桑田郡下弓削で扁平鈕式銅鐸が発見されて以来のものであり、兵庫県側の丹波における初見の例となった。
特に野々間遺跡のもつ重要な意義は、今日まで不明とされていた銅鐸の埋納状況が明確になになったことである。
平成2年11月 兵庫県教育委員会
「になにな」って何と表記ミスまで記録してツッコむ必要もないが、遺跡の価値をいささかも損なうものでないため、30年間放置されているようだ。自然薯が銅鐸に化けて文化財デビューを果たした。2口の銅鐸は「野々間遺跡出土銅鐸」として県の考古資料に指定されている。
どちらの銅鐸も穴の底から浮いた状態で検出され、1号銅鐸はほぼ垂直に近く、2号銅鐸は鰭を水平に45度傾斜して埋められていた。冒頭に埋納形態には規則性があると書いたが、鰭が垂直になるように横たえて埋めるのが一般的だ。しかし野々間遺跡は立てた状態で見つかっている。これをどう考えるのか。独自の主張があったのか、それとも作法を知らなかったのか。
銅鐸は鈕の形態を中心に、菱環鈕式→外縁付鈕式→扁平鈕式→突線鈕式に分類される。このうち扁平鈕式は紀元前後を下限とするので、野々間遺跡の銅鐸は1世紀初めの第1回銅鐸大埋納で埋められたのだろう。
いったいどんな思いで埋納したのだろうか。「世の中が平安でありますように」なのか、「次のお祭りまで保管しておこう」なのか。もしかすると「大陸で政変が起きているらしい。新政権に見つからないように埋めておこう」なのかもしれない。
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