豊臣秀頼は気になる人物の一人だ。昨年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」で太賀が聡明な秀頼を演じていたが、実際その通りだったのだろう。これを徳川の天下に対する脅威とみなした家康が豊臣家を滅ぼすのだが、家康の寿命と秀頼の成長は競争のようなもので、秀頼の成長が勝っていたこともあり得たという空想も楽しい。
大阪市中央区玉造二丁目の玉造稲荷神社の境内に「胞衣塚(よなづか)大明神」がある。
「胞衣」は一般に「えな」と読み、胎盤のことである。生まれた子どもの成長を願って埋納する習俗があった。試みに「胞衣塚」と検索すると、歴史上の人物の名前がいくつも見つかる。この大明神は、豊臣秀頼の胞衣塚である。説明板を読んでみよう。
文禄二(一五九三)年,豊臣秀頼公御誕生の砌(みぎり)、公の胞衣(えな、大阪ではヨナと呼び淀殿の胎盤、胎児を包んでいる膜など)を埋め申したのが大阪城三の丸に当たる当玉造の地であった。
以来、豊臣家の恩義を忘れぬ地元の人々により世々祀り継がれてきたが、昭和二十年の戦火による焼損のため、上町一丁目(もと寺山町)から玉造一丁目(もと東阪町)へ遷座申し当社宮司が斎主となり奉祭し、来たったのである。
さて、このたび大阪築城四百年を吉兆とし大明神を公ゆかりの当社境内に遷座申すこととなった。
なお、当地の民俗に、みどり子の夜泣き、子の悩みを封ずるのに、当大明神のほとりに生ずる笹をご祈祷の上もらい受け、子の寝床の下に敷けば霊験あらたかであると信ぜられている。
上町一丁目13の区画に「寺山子安地蔵尊」があるが、このあたりは昭和54年の住居表示実施までは寺山町と呼ばれていた。その昔は大坂城代下屋敷があり、そこに秀頼の胞衣塚が祀られていたのだという。
今年5月に刊行された『河原ノ者・非人・秀吉』(服部英雄、山川出版社)では、秀頼は秀吉の実子ではないと論じられている。しかし、秀吉が溺愛した後継者であり、豊臣家の当主として一家を成したのだから、それ以上問う必要はなかろう。擬制的な親子などいくらでもある。
近くに埋もれた鳥居がある。これは、慶長8年(1603)3月吉日銘のある鳥居で、阪神・淡路大震災で損壊するまで神社のシンボルであった。この鳥居を奉納したお方は誰あろう、豊臣秀頼公であった。
そう、この神社は、豊臣家への輿望を担った秀頼公を偲ぶのに最もふさわしい場所なのだ。今訪れたなら公のお姿を銅像で目にすることができる。昨年の10月に完成した。ここに写真がないのは私が訪れたのが7月だったためだ。衣冠束帯姿の堂々とした立像は、太賀の演じた秀頼公と重なって見えることだろう。
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