先の通常国会で大都市地域特別区設置法が成立し、橋下徹大阪市長の主唱する「大阪都構想」が実現可能になった。実現したとしても「大阪都」という名称の自治体ができるわけではない。「都」はいつまでも首都東京の専有である。しかし嘆くことはない。とっくの昔に「大阪都」は実現していた。
大阪市中央区法円坂一丁目に「難波宮跡(なにわのみやあと)」がある。都心なのに非常に広い空間が確保されており、いにしへの都もかくやあらむ、と思う。
この難波宮は史上二度にわたって都とされ、前期難波宮と後期難波宮の両方の遺跡がほぼ重なる形で発掘されている。写真に見える復元された基壇は後期難波宮の大極殿跡である。史書によって、いにしえの「大阪都」の全貌を明らかにしよう。引用元は『假名日本書紀』(大9、大同館書店)である。
645年(大化元年)【都を難波へ ネズミも引っ越す!】
冬十二月、きのとのひつじの朔、みづのとのうの日、天皇都をなにはの長柄の豊崎にうつし給。老人等、あひかたりていへらく、春より夏にいたるまで、ねずみのなにはに向しは、都うつりのしるしなり。
651年(白雉二年)【孝徳天皇が味経宮から難波宮に入る!】
冬十二月のつごもり、味経(あぢふ)宮に二千一百余のほうしあまをませて、一さいきやうをよましむ。是夕二千七百余のおほみあかしを朝(みかど)の庭内(おほには)にともして、安宅土側等の経をよましむ。ここに天皇大郡より新宮にうつりおはします。なづけて、難波の長柄とさきの宮とまうす。
652年(白雉三年)【難波宮がついに完成 言い尽くせない素晴らしさ!】
秋九月、宮つくりすでに終はんぬ。その宮殿(おほとの)のかたち、ことごとくにいふべからず。
(この間、都は大津宮、飛鳥浄御原宮へと遷る。)
683年(天武十二年)12月【複都制により再び難波が都に!】
またみことのりしてのたまはく、およそ都城宮室一処にあらず、必ずふたところつくらん。故先難波にみやこつくらんとおもふ。こゝを以て百寮のひと、おの/\まかりていへどころをたうばれ。
686年(朱鳥元年)正月【難波宮が焼け落ちる!】
きのとのうの日とりの時、難波の大蔵つかさ失火(みつながれ)て、宮室(おほみや)こと/゛\くやけたり、ある人のいへらく、阿斗(あと)連くすりが家の失火、はびこりて宮室に及べり、たゞし兵庫職(つはものゝつかさ)はやけず。
ここでひとまず古代の大阪都はその歴史を終える。再登場は40年後、聖武天皇の時代である。今度は『続日本紀』(新日本古典文学大系、岩波書店)から引用する。
726年(神亀三年)10月【難波宮の再建が始まる! 式家の宇合が造営責任者】
庚午、式部卿従三位藤原宇合(うまかい)を知造難波宮事とす。陪従せる无位の諸王、六位已上、才藝の長上、難波宮の官人、郡司已上に禄賜ふこと各差あり。
734年(天平六年)9月【難波京で宅地の分譲が始まる!】
辛未、難波京に宅地を班(あか)ち給ふ。三位以上には一町以下、五位以上には半町以下、六位以下には一町を四分せるが一以下。
(740年、聖武天皇の「彷徨五年」が始まる。)
744年(天平十六年)【恭仁京で首都移転希望アンケート実施!】
閏正月乙丑の朔、詔して百官を朝堂に喚し会へ、問ひて曰はく、「恭仁・難波の二京、何をか定めて都とせむ。各その志を言せ」とのたまふ。是に、恭仁京の便宜を陳ぶる者、五位已上廿四人、六位已下百五十七人なり。難波京の便宜を陳ぶる者、五位已上廿三人、六位已下一百卅人なり。
戊辰、従三位巨勢朝臣奈弖麻呂(なでまろ)、従四位上藤原朝臣仲麻呂を遣し、市に就きて京を定むるを問はしむ。市の人皆恭仁京を都とせむことを願ふ。但し、難波を願ふ者一人、平城を願ふ者一人有り。
744年(天平十六年)2月【アンケート結果を無視して、難波宮に玉座を運ぶ!】
甲寅、恭仁宮の高御座(たかみくら)并せて大楯(おほたて)を難波宮に運ぶ。また使を遣して水路を取りて兵庫の器仗を運び漕がしむ。
744年(天平十六年)2月【難波宮にいた聖武天皇は紫香楽宮に出かける!】
戊午、三嶋路を取りて紫香楽宮に行幸(みゆき)したまふ。太上天皇と左大臣橘宿禰諸兄とは留まりて難波宮に在り。
744年(天平十六年)2月【難波宮を首都とすると発表!】
庚申、左大臣勅を宣りて云はく、「今、難波宮を以て定めて皇都(みやこ)とす。この状を知りて京戸の百姓(はくせい)意(こころ)の任(まにま)に往来すべし」とのたまふ。
745年(天平十七年)【紫香楽宮を新しい都とする!】
春正月己未の朔、朝を廃む。乍(たちま)ちに新京に遷り、山を伐り地を開きて、以て宮室を造る。垣牆(かき)未だ成らず、繞(めぐら)すに帷帳(とばり)を以てす。兵部卿従四位上大伴宿禰牛養、衛門督従四位下佐伯宿禰常人をして大きなる楯・槍を樹てしむ。
結局、聖武天皇不在のまま日本の首都「難波京」は歴史を終えた。確かに建物は後期難波宮のほうが格段に堅固なようだが、都の機能としては前期難波宮のほうが実績を残している。とすれば、ここは孝徳天皇に深いゆかりのある史跡である。
孝徳天皇は、中大兄皇子が飛鳥へ戻ることを勧めても、難波宮から動かなかった。遣唐使を送るなど、外交重視の姿勢を維持しようとしたのだろう。亡くなったのも難波宮である。中大兄皇子に比べて影の薄い孝徳天皇だが、大阪を心から愛した天皇としてもっと記憶されてもよいだろう。
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