道の駅という便利な施設が各地にあり、旅行者が休憩したりお土産を買ったりと、思い出をつくっている。古代にも道の駅があったが、お偉いさんの公務で使われ、乗り継ぎ用の馬が飼育されていた。馬で書類や物資を運ぶ仕組みを駅伝制といい、東京箱根間でタスキをつなぐ競争を駅伝という。近現代の駅は鉄道にあり、古代の駅は道にあった。
兵庫県赤穂郡上郡町佐用谷(さよだに)に「辻ヶ内遺跡」がある。何の表示もないが、ここは古代山陽道の「高田駅家」跡である。写真に写る看板は小野豆(おのず)高原の案内である。写真左端の佐用谷を進むと行くことができる。
目の前を通過する兵庫県道5号姫路上郡線は古代山陽道を踏襲している。写真は上り方向で、この先には椿峠がある。『延喜式』巻二十八兵部式「諸国駅伝馬」播磨国駅馬条には、次のように示されている。
明石三十疋。賀古四十疋。草上三十疋。大市、布勢、高田、野磨各二十疋。越部、中川各五疋。
古代山陽道は大路。外国使節の往来もあることから、国道1号のような主要幹線道路として最も整備が進んでいた。標準の駅馬は二十匹であり、それは『大宝令』第二十三廐牧令第十六諸道駅馬条に規定されていた。
凡諸道置駅馬大路廿疋中路十疋小路五疋
ただし、畿内に近い駅は規定以上に配備されていたことが分かる。
岡山県小田郡矢掛町浅海(あすみ)に「毎戸遺跡」がある。写真は井笠バスのバス停「毎戸」で、遺跡は左手の家の向こうあたりにある。
『延喜式』巻二十八兵部式「諸国駅伝馬」備中国駅馬条には、次のように記されている。
津峴、河辺、小田、後月各二十疋
ここ小田駅家にも二十匹が配備されていた。ところが一時期、駅馬の数はもう少し多かったらしい。『類聚三代格』巻第十八「駅伝事」に掲載されている大同二年十月二十五日付け太政官符「応減省駅馬参佰肆拾疋事」には、各国で減じる駅馬の数が示されている。
播磨国九駅四十五疋
…
備中国五駅二十五疋
…
已上元駅別二十五疋
…
駅別減五疋
備中国には5つの駅家があり、それぞれ25匹の駅馬が配備されていた。これを5匹減じて20匹に戻したというのだ。理由は海上交通利用の増加によるものらしい。ただし「備中国五駅」がよく分からない。『延喜式』では四か所の駅が示されているが、他にもう一つあったのだろうか。
古代の大路、国道1号は国道486号となって東西を結んでいる。平坦な道が長く続く快適なドライブルートだ。小田駅家があった頃からずいぶん後の江戸時代には、東へ進んだ先にある矢掛宿が栄え、天璋院篤姫も泊まった。そして今では、道の駅山陽道やかげ宿が大賑わいである。年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず。