異才ダンス集団コンドルズのメンバー小林顕作さんは、Eテレのオフロスキー役のほか、大河『真田丸』で明石掃部を演じたことでも知られている。その明石掃部は大坂夏の陣で敗北し、討ち取られたとも逃げおおせたとも言われているが、このような話もある。17世紀の史料『耶蘇宗門制禁大全』(国立公文書館内閣文庫蔵)巻第一「宗門制禁来由」には、次のような記述が登場する。
掃部ハ元和年中大坂表ニテ水野日向守ト戦テ城中ニ引入リ京橋ヨリ舟ニ乗兵庫ニ至リ夫ヨリ長崎エ漕渡リ耶蘇宗タルニ依テ西洋国エ発船スト書置南蛮エ渡シ候ト也
信仰の強固なキリシタン武将だったから、異国へ行ったという噂には「さもありなん」という信憑性が感じられる。明石掃部は関ヶ原までは宇喜多秀家麾下の有力武将で、全登という名前の読みも含め、その生涯には不明な点が多い。
本日は明石掃部の居城、保木城に行った、いや行けなかったレポートをお届けする。位置は分かったのだが、そこに城はなかったのである。
岡山市東区瀬戸町万富と 赤磐市徳富の境に「保木城跡」があった。山陽自動車道の保木トンネルの真上である。
とりあえず城山の頂上らしき地点にたどりつく。地理院地図で確認すると標高129m。ところが『岡山県中世城館跡総合調査報告書(備前編)』には、「保木城跡は標高181mの城山頂部一帯に位置する。」と記述されている。いや、これ以上高い所はなく、断崖絶壁が待ち受けるだけ…。
城山はずいぶん以前から採石場となり、その形を大きく変えてきた。山が失われる前に発掘調査が行われ、その成果が先の報告書に記載された。その縄張図を地理院地図が提供する古い航空写真と比べると、現在の城山の南にY字型に曲輪を並べた「保木城跡」があったようだ。実際のところ城跡は山ごと失われており、写真は城跡を写しているとは言えない。
この場所は現代でも山陽自動車道と山陽本線が通過する東西交通の要衝である。歴史的には近くを古代山陽道が通り、吉井川を通じて南北にも開けていた。この重要地点を押さえていたのが明石氏三代、すなわち明石源三郎、飛騨守、掃部頭である。諱なら景憲、景親、全登である。
寛政年間に編纂された『吉備温故秘録』の巻之三十八「城趾」中 一、磐梨郡「保木城」には、明石氏三代の事績がまとめられており、掃部については次のように記されている。
さて掃部は切支丹宗を信じ、伴天連を岡山へ呼、我宅に置家中町在まで此宗をすゝめ、改宗させければ、宇喜多左京・岡越前守・戸川友林・同肥後守・花房志摩守などは改宗せず。長船・中村二郎兵衛などは切支丹宗故、又家中二つに分れ中悪しくなりけり。関ヶ原乱後は掃部は大阪へ浪人となりて行、切支丹を専らとせしが、大阪乱の節一方の大将と成、能働有。落城後行方不知といふ。(一説に南蛮へ渡ると云、未詳。)
“にわか”でも“なんちゃって”でもない本気のキリシタンで、なんと宣教師をホームステイさせていたという。「戸川どの、貴殿も切支丹となってはいかがでござろう。岡山がヘヴンになりますぞ。ラララ~」「はんッ、なにがヘヴンじゃ。宇喜多家中も変わってしもうた。こねえな奴とはやっとれん!」本気の法華信者の戸川氏と相容れるはずもなかった。
エキゾチックでトラブルメーカーで最期に行方不明、まさか南蛮へ? 少々デフォルメしすぎかもしれないが、物語の人物として放置できない魅力がある。にもかかわらず、その居城までもが幻となってしまった。私たちは何をよすがに明石掃部を偲べばよいのか。本ブログでは一つだけ「キリシタン武将は何処へ」で紹介しているので参照していただきたい。
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