石灰岩がつくり出す美しい景観が、3億5千万年の旅をしてきたと知って驚いた。Mine秋吉台ジオパークの資料によれば古生代石炭紀、この石灰岩は海底火山の周囲にできたサンゴ礁だったという。場所は1万数千キロ離れた、もっと赤道に近い暖かい海だった。
そのサンゴ礁は石灰岩へと変化しながら、海洋プレートとともに8千万年かけて移動し、海溝に沈み込んでいく。この時、プレートの表面が大陸にはぎとられ、ぐじゃぐじゃに積み重なっていく。これを付加体といい、マグマ由来の岩石や石灰岩のように堆積してできた岩石が入り混じっている。
ペルム紀付加体の石灰岩は、その後の隆起によってところどころ地表に現れている。もっとも代表的なのが山口県の秋吉台、広島県なら帝釈峡、岡山県なら阿哲台であろう。本日は阿哲台から少し東に位置するカルスト地形を紹介しよう。
真庭市神代に「龍宮岩」がある。市の名勝に指定されている。
訪れたのは冬枯れの時季だったが、秋なら錦織り成す景観に圧倒されることだろう。それでも変化に富んだ岩塊と幾条にも別れる流れは、見れど飽かぬかもである。説明板を読んでみよう。(「真庭市」はシール。下はおそらく「勝山町」だろう。)
名勝 神代の鬼の穴 龍宮岩
新庄川の清流に洗われた雪白の石灰岩が、長年の浸食により様々な奇岩を創り出し、その景観はあたかも龍宮を思わせるところから「龍宮岩」と呼ばれている。 河中の岩には数多の小洞窟があり、流水は或いは激流となり吸い込まれ、或いは噴出して渦巻きを生じ、深い淵には紺碧の水を湛え龍宮の名に背かない。
これより二百メートル下流、左岸に「鬼清水」がある。夏でも摂氏十二度の冷泉は作西の三清水の一つと云われ、出雲の国の松平不昧公が参勤交代のおり愛飲されたと伝えられる。
(中略:鬼の穴の説明)
この一帯は真庭市指定名勝地となっている。
真庭市
景観が龍宮に似ているかは分からない。龍宮に行けばおそらく、物珍しさにきょろきょろと落ち着かないことだろう。龍宮岩の奇観を見てもまた同じ。秋なら木々の赤、岩の白、水の青と龍宮に見えるのかもしれない。出雲街道沿いだから名君不昧公も立ち寄られたとのこと。私もうれしくなって岩から岩へと渡り歩いたのだった。
国道を少し南に下ると「鬼の穴」がある。
こちらは鍾乳洞である。暗くて入口付近をウロウロするばかりだった。古い説明板があるので読んでみよう。
神代の鬼の穴
この鬼の穴は、石灰岩が地下水により浸食された洞窟(鍾乳洞)で、五十メートル程入ることができ、穴の中途より左右に支洞がある。奥には昭和二十年頃まで豊富な水を湛えていたが、今では渇水して深い窪地となっている。
洞内には、イシノミの一種、トビムシの一種、ヤスデの一種、その他小動物の生息が確認されている。
また明治維新の際、西園寺公望公が「山陰鎮撫総督」となり薩長の兵を率いて丹波路から鳥取、松江、杵築に至り帰途四十曲峠を経て新庄、勝山に一泊したがその途次この洞内に入り「慶応四年三月九日山陰惣督藤公望到穴」と壁書した刻みがある。
この穴より東北東に三キロメートル離れた「神庭の滝」の鬼の穴に続いているという伝説がある。
勝山町
龍宮岩では松平不昧公だったが、今度は西園寺公望公が登場した。後に最後の元老として昭和史を動かすこととなる大物は、満18歳にして新政府成立の帰趨を決する重要な役割を果たしていた。
その公望公が鬼の穴に入ったというのだ。IOCのバッハ会長が銀座に遊びに行ったようなものか。のちに公爵を授けられるやんごとなき御方の壁書は、文化財保護法違反に他ならないが、今となっては逆に文化財の価値を高めているといえる。バッハ会長の銀ブラもやがては…、いやいや、やはりBaron Von Ripper-off(ぼったくり男爵)としか記憶されないだろう。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。