鳥取と岡山の県境に那岐山(なぎさん)という雄大な山がある。岡山県側のふもとには奈義町(なぎちょう)があり、鳥取県側のふもとには那岐駅(なぎえき)がある。奈義町には名木ノ城(なぎのじょう)という山城もある。このあたりにはたくさんの「なぎ」がある。
岡山県勝田郡奈義町成松に諾神社(なぎじんじゃ)が鎮座し、鳥居の前に「奈義神山之碑」がある。御祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)である。この「なぎ」が山名の由来だとも言われている。
諾神社はもともと、那岐山の山頂に鎮座していたという。東作の各地から見える雄大な山容を、人々は神として崇敬したのだろう。そのスケール感は訪う者の琴線に触れ、一篇の詩歌が生みだされる。備前の吟遊歌人平賀元義の手に掛かれば、次のような万葉歌となるのであった。
嘉永四年十一月二十七日
詠奈義神山歌
平賀左ヱ門太郎源元義
那美那美迩淤母布那古杼母美都能遠能美布美迩能礼琉迦美能美夜摩曽
伏見稲荷大社宮司藤巻正之謹書
嘉永四年は1851年。黒船ショックにはあと少しあるが、国学のルネサンスは隆盛期を迎えていた。岡山藩士の枠に収まりきれなかった自由人平賀元義は、各地を遍歴し多くの詩歌を遺している。神の山那岐山を万葉調に詠じたこの歌もその一つだ。揮毫をした伏見稲荷大社の藤巻正之宮司は岡山県出身で、中山神社や日光東照宮、湊川神社で奉仕されたこともある方である。
「那美那美迩…」は確かに三十一文字で和歌には間違いないが、ヤンキーの「夜露死苦」や「愛羅武勇」とそれほど区別がつかない。何か手掛かりはないかと思い、下の銅板に刻まれた文を読んでみた。
奈義神山碑
美作国苫田の国府の東に神はしも多に坐れど掛まくも畏き英田郡天石戸別神畏くも畏き勝田郡奈義の大神掛まくも畏き苫田郡大佐々神此の参処の皇神ぞ雨を降らし水を下し年を栄えしめ国を富ましめて其の御恵みの高く尊き神になもましましける。故掛まくも畏き平安宮に天の下しろしめす清和の聖の天皇貞観五年五月二十八日に此の参処の皇神等に並ニ従五位上を授け賜へる其の由三代実録又美作風土記に見えたり。其のいわゆる掛まくも畏き奈義の大神は天そゝり高く尊き此の奈義山の皇大神にぞましましける此く尊き此の大神の御山の由を此の神山の麓に隠り住む播磨国三ヶ月の武士可児六郎源由章石書に記さむとて先づ其の上つ辺に万里小路侍従藤原博房朝臣の奈義神山の碑と云ふ五つの字を受け賜はり置きてさて其の詞を己れに請へり故れかくなも記し著けて歌つくりて記しける其の歌
なみなみにおもふなこどもみづのをのみふみにのれるかみのみやまぞ
平安朝嘉永四年十一月二十七日此く記すは平賀左衛門太郎源元義
平安時代以来の漢字仮名交じりの分かりやすい解説文かと思ったら、こちらも平賀元義先生の文章だった。復古調が大好きなだけあって「かけまくもかしこき…」と、祝詞のような文体である。
東作の地には恵みをもたらす三柱の神、すなわち英田郡の「天石戸別神」、勝田郡の「奈義神」、苫田郡の「大佐々神」がいらっしゃる。清和天皇の貞観五年(863年)5月28日に、これら三柱の神々に従五位上が授けられたことが『日本三代実録』などに見える。奈義神とは那岐山の神、伊弉諾尊である。この神のまします那岐山について播磨三日月の可児由章が石碑に記そうと、万里小路博房に「奈義神山碑」の五文字を揮毫していただき、私平賀に撰文を依頼してきた。そこで私はこのように記し、歌を詠んだ。
ふつうだと思ってはならない。那岐山は『三代実録』に記載されている神の山なのだ。
石碑を建てる計画はあったが、実現しなかったようだ。現在の碑が昭和38年(1963)に建てられたおかげで、私たちは平賀元義の熱情に触れ、那岐山の神々しさを知ることができた。さすがはトルバドゥール平賀、人の心を動かす術を熟知しているらしい。
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