今年の日本外交はどうなるのか。岩屋外相は中国の王毅外相の来日に合わせて日中韓の外相会議を実現したいと言っている。米国トランプ新政権の対中国政策が厳しくなることが予想される中、経済的に深くつながる三か国が連携することに大きな意味があるだろう。ただし、親日的な韓国尹政権はいつまでもつのか分からぬ状態で、先行きは五里霧中の状況だ。
しかし、幕末の我が国の外交は現在よりもっと困難だった。尊王攘夷を叫ぶ諸士と日本市場を狙う諸外国との狭間で苦しみながらも幕府は、諸勢力と折り合いをつけて信義ある外交を展開しようとした。
文久三年(1863)、朝廷から攘夷の意思が示され幕府は攘夷決行を表明するものの、具体的に動くことはなかった。この間に長州藩が外国船を砲撃し、横浜では仏人士官が何者かに殺害された。武力攘夷が不可能なことをよく知る幕府は、問題を横浜鎖港と兵庫開港延期に焦点化し、横浜鎖港交渉を始めるのであった。
こうして、本日の主人公、池田筑後守長発を正使とする遣欧使節団が出発した。時に文久三年十二月二十九日。一行を乗せたフランス軍艦はインド洋からエジプトを経由してフランスに入った。スフィンクス像の前で撮った写真はあまりにも有名だ。
フランスでは皇帝ナポレオン3世とウジェニー皇后の歓待を受けるが、鎖港交渉はうまくいかず、次のように協定を結んで帰国の途に就くのである。正式には巴里斯(パリス)約定と呼ばれ、一般にはパリ約定、巴里の廃約ともいう。結局のところ、幕府が批准することなく効力が生じなかったからだ。
仏国皇帝陛下の外務執政ドルワン、ド、リュイース閣下と大君殿下の使節として正しく此事件に任せられたる池田筑後守河津伊豆守河田相模守閣下等と次の箇条を同意決定せり
第一条
千八百六十三年七月中長州に於て仏国海軍の「キヤンセン」艦に向ひ発砲に及ひし一件の償として大君の使節閣下日本へ帰着の後三箇月後に日本政府江戸に在留せる仏国皇帝陛下の公使へ墨斯哥銀十四万弗の償金を払はん事を約せり但し内十万弗は政府自ら払ふへく四万弗は長州の官員より払ふへし
第二条
大君の使節閣下日本へ帰着の後三箇月の内に日本政府下の関海峡を過んと欲する仏国船の遭遇する妨害を除かしめん事を約せり而て止を得さる時は兵力を用ひ又時宜に寄り仏国海軍分隊指揮官と一致して常に此通行をして妨なき樣為し置ん事を約せり
第三条
仏蘭西と日本との貿易交通をして次第に盛大ならしめんか為め千八百五十八年十月九日江戸に於て両国の間に取結ひし条約行はるゝ期限の間は仏商人或は仏旗を建て輸入する品物の為に大君殿下の政府より最後に外国交易に許し与へられたる減税表目を推用すへし
夫故に此条約を精密に守る間は茶の包裝に用る左の物品をは運上所に於て無税にて通すへし即ち葉鉛、鉛蝋、敷物、籐、画に用る油、藍、硫酸、石灰、平鍋、籠
又日本運上所にては左の物品輸入の時只其価の五分税を取立へし酒、酒精物、白砂糖、銕、銕葉、器械、器械の部分、麻の織物、時計、懐中時計、及ひ鎖り、硝子器、薬、而て硝子、及鏡、陶器、飾玉物、化粧の香具、石鹸、兵器、小刀の類、書籍、紙、彫刻物、画には六分の税を取立ヘし
第四条
右の約定は千八百五十六年十月九日仏蘭西と日本の間に取結たる条約の犯すへからさる部分の一と見做し双方主君の本書交換を要せす直に実行すへし
右を証する為に上に記名せる諸全権此約定書に記名し且其印を鈐(けん)する者也
千八百六十四年六月二十日巴里斯に於て原書二通に認む
池田筑後守 花押
河津伊豆守 花押
河田相模守 花押
ドルワン、ド、リュイス 手記
長州藩が引き起こしたことの責任を取り、関門海峡通行の安全を保障し、関税率の引下げを約束した。もちろん殺害された仏人士官の遺族に慰謝料も支払った。慣れない外交交渉を精一杯成し遂げた幕臣、池田筑後守の領地からレポートしよう。
井原市井原町の井原小学校に「池田筑後守長発銅像」がある。像は昭和六十一年制作だが、台座には「紀元二千六百年」とあるから、昭和十五年に相応しいものが置かれていたのだろう。
手前に写る標柱には「池田筑後守陣屋趾」と示され、裏面には「昭和十八年 後月郡教育会」とある。ここには旗本池田修理家の陣屋があり、長発はその十代目であった。説明板を読んでみよう。
この地は、寛永十九年(一六四二)より、幕末まで、旗本池田修理家の陣屋が置かれたところである。
十代目領主池田筑後守長発略歴
幼名孝七郎、後に英七郎、実幼名経徳(つねよし)、通称修理、諱は長発(ながおき)、字は大稀、可軒と号する。
天保八年(一八三七)江戸西窪で直参池田加賀守長休の第四子として誕生する。池田筑後守長溥の養子となる。
嘉永六年(一八五三)十七歳で、井原の十代目の領主となる。
長発は、昌平黌に学び、「気宇俊邁臨機明断の才ある神童」と呼ばれる。漢書和書・洋書を精読し、「人間は万巻の書を読まねばならない。」を信条とする。
文久三年(一八六三)二十七歳の若さで、外国奉行に抜擢され、遣欧使節正使に命ぜられる。
元治元年(一八六四)三月、フランスに到着、パリにて、皇帝ナポレオン三世に謁見。二ヶ月にわたり、横浜鎖港問題等について、外交交渉にあたる。
帰国後、鎖国政策をやめ、開国の建議書を幕府に差し出し、蟄居を命ぜられる。
慶応三年(一八六七)赦され、勝海舟とともに軍艦奉行となる。(三十一歳)
明治となり、新政府が成立する。長発は、養子の長春らと井原への帰住を決意する。「井原心学館」設立を企画し、心学館掲牌三則をつくる。
明治十二年(一八七九)岡山市古京町にて四十三歳の生涯をとじる。
法号 賢忠院殿簡翁可軒大居士
大正四年(一九一五)正五位を贈られる。
開国を主張して蟄居処分となったという。幕府の立場では尊攘派の目もあることから、横浜鎖港という使命を果たさなかった長発を不問にするわけにはいかなかったのだろう。
池田修理家の系譜を遡ると、池田輝政の弟長吉に行き着く。長吉は関ヶ原後に因幡鳥取を与えられ、城下町の再建に取り組んだ。その子長幸の時に備中松山に移封された。ところが、その子長常の死去により無嗣改易となってしまう。寛永十八年(1641)のことである。
お家存亡の危機に活躍したのが、長常の弟長信の乳母尾砂子(おさご)だ。幕府に哀訴嘆願し、翌十九年に長信による池田家再興を実現した。石高千石の領地は後月郡内で、その中心がここ井原村であった。
長信を祖とする池田修理家は幕末まで十一代続き、長発はその十代目に当たる。九代長溥(ながひろ)の養子で、実父は長幸の弟筋である長賢流八代目の長休(ながのり)である。池田一族は大名家だけでなく、旗本として幕府を支えていた。その領地の一つが井原だったのである。
井原市西江原町の興譲館高校グラウンドの前に「一橋府江原役所趾」の標柱が建つ。ここには御三卿一橋家領地の陣屋があったのだ。
陣屋はグラウンド一帯にあったということだ。北側に回ってみよう。
県道沿いに陣屋の守護神として勧請されたという「正一位稲荷神社」が鎮座する。
ありがたいことに、ここには詳細な説明板が2枚も設置されている。一橋家以前には津山藩主だった森家の陣屋があったようだ。どのような事情があったのだろうか。まずは森家について教えてもらおう。
森和泉守館跡(西江原藩)
森氏は、長く美作国津山藩を治めていたが、元禄一〇年(一六九七)に跡継ぎがなく領地を召し上げられた。しかしその後再興し、隠居していた森長継を藩主として西江原藩二万石が興された。領地は後月郡・小田郡・哲多郡・浅口郡・窪屋郡に広がっていた。その後、二代藩主長直(和泉守)の代の宝永三年(一七〇六)に、森家は播磨国赤穂藩へ移された。
陣屋があった区域は現在の字「館跡(やかたあと)」に重なり、小さな字を合併して、面積は五町歩余りに及んだといわている。現在の興譲館高等学校のグラウンドとほぼ重なり、さらに県道一六六号をはさんだ北部も含まれる。当時は北の地蔵堂がある地所から西に向かって、南向きの藩主居館を設け、その他の場所に様々な建物や藩士邸を建てたという。
陣屋の築造は現在の「本新町」の形成にもつながっていた。敷地予定地にあった領民の住居は陣屋築造のために退去することとなり、山陽道沿いへ移住させられた。これが現在の「本新町」の始まりといわれる。「江原新町」の街並み形成の発端は森氏の陣屋築造にあった。
この他、森氏の治世には、後に郷校興譲館が設置される寺戸に関衆利(せきあつとし)の屋敷が置かれていたという。
関衆利は森長継の十二男で、津山藩断絶の一件に巻き込まれた人物である。寺戸に屋敷を構え、宝永三年(一七〇六)に亡くなった。墓は西江原町の永祥寺近くの街道沿いに建立された。
字「館跡」は、森氏が赤穂藩へ去った後畑地となっていたが、文政一二年(一八二九)には一橋領の代官所が築造された。
平成三十一年三月吉日
西江原史跡顕彰会
津山藩主家であった森氏は元禄十年に四代で絶え、関衆利を五代目に据えたものの、予想外の結末を迎えることとなった。その記録を幕府の正史『徳川実紀』常憲院殿御実紀附録巻上で確認しよう。
十年八月森美作守長成死にのぞみ。関式部衆利を養子にせんとねがひしにより。衆利を封地より召れしに。伊勢まで来り俄に失心し。近臣を刃傷せしよし聞しめし。所領美作十八万六千石収められ。祖父内記長継をめし出され。新に二万石賜ひその祀を奉ぜしむ。
「近臣を刃傷せし」とあるから、「跡継ぎがなく」という単純な理由ではないことが分かる。発狂ということにして体よく葬り去った可能性もあるだろう。津山藩は当時、中野犬小屋の普請を担って疲弊し、幕政に対する不満が高じていた。
ただ、津山藩主第2代の森長継が存命だったのでお家断絶は免れ、元禄十年(1697)に西江原藩を興すことができた。そして、宝永三年(1706)に播州赤穂に移封され幕末に至る。森家の去った西江原は天領となった。
百年以上の時を経て、西江原に陣屋が復活する。御三卿一橋家の領地となったのだ。説明板を読んでみよう。
備中一橋領の江原陣屋
江原陣屋
文政一〇年(一八二七)に、備中国内へ御三卿・一橋家の領知三万三五〇〇石余りが設けられた。幕府領からの編成替えで、領知は小田郡二九か村・後月郡二六か村・上房郡九か村であった。
赴任した伊藤恒三郎代官は、いったん後月郡木之子村の平木京助宅を仮陣屋とした。その後、森家西江原藩(一六九七~一七〇六)の陣屋が所在した西江原村字館跡への普請が始まり、文政一二年(一八二九)九月に竣工した。
江原陣屋は、三方に濠をめぐらせ、裁許所・白洲・仮牢のほか、詰員宅や貯穀用倉が設けられていた。現存する建物はないが、堀の一部や井戸一か所が確認される。また稲荷神社 が現存する。
陣屋は「江原役所」「江原陣屋」と称され、歴代九名の代官が赴任した。その中でも、弘化四年(一八四七)十月から約十年間在職した第六代友山勝次は、経済・医療・教育など多方面に治績を挙げ名代官といわれた。慶応元年(一八六五)には、一橋家家臣渋沢篤太夫(栄一)が農兵募集のため「出役(しゅつやく)」として立ち寄っている。
明治元年(一八六八)正月、陣屋はいったん新政府軍の預かりとなるが、一橋家が一橋藩として認められると、再び田口泉助代官が入陣した。その後、一橋藩は倉敷県へ合併され明治三年六月に田口代官は退出した。
陣屋の建物敷地は明治七年(一八七四)に売却され、大部分は私有地となっている。
正一位稲荷神社
江原陣屋の守護神として勧請され、俗に「館跡稲荷」と呼ばれた。鳥居には「文政十三年」「平木京助奉納」と刻銘される。
一橋領の時代には、毎年二月、初午の例祭日に陣屋の門扉が開放され、領民らが参拝したといわれる。明治維新以後は西江原村の本新町・東新町・西新町で祀っており、初午には宮司を招き祭礼を行っている。
令和三年十一月
西江原史跡顕彰会
備中に一橋領が置かれた文政十年(1827)当時、一橋家の当主は4代目の徳川斉礼(なりのり)であった。斉の字は11代将軍家斉からの偏諱である。その後、5代斉位(なりくら)、6代慶昌(よしまさ)、7代慶壽(よしとし)、8代昌丸、9代慶喜、10代茂徳(もちなが)と続いた。渋沢篤太夫が来たのは慶喜の時代、一橋藩として独立したのは茂徳の時代である。
江原陣屋で代官を務めたのは就任順に、伊藤恒三郎、佐々木新五郎、榊原藤五郎、佐々木新五郎、山本弥兵衛、友山勝次、井口善兵衛、稲垣錬蔵、田口泉助である。名代官として知られるのは友山、渋沢がやって来た時の代官は稲垣、混乱期に領地を差配したのは田口であった。稲垣は渋沢の動きに協力的でなかったらしく、渋沢から「旧習を墨守する人」と評されている。
地方史の中に日本史の有名人物が登場する。池田長発に渋沢栄一。そして森氏に池田氏という大身の大名。お殿さまになる直前で不祥事を起こした世子。さらには、渋沢に理解がなかった代官。井原ゆかりの魅力的な人たち。池田領と一橋領の間を今日も小田川が静かに流れている。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。