令和5年の内閣府の調査によれば、中国に親しみを感じる人は12.7%と過去最低だった。確かにそんな風潮を感じる昨今だが、昭和55年には78.6%もの人々が親しみを感じると答えていた。当時の中国の指導者は鄧小平で、胡耀邦の時代が始まろうとしていた。それからの数年間、中曽根康弘首相と胡耀邦総書記の時代、日中は蜜月関係にあった。
政府の関係が国民感情にも反映されているのか。しかし、今こそ思い起こすべきだ。日中戦争の戦前、戦中、戦後を通じ、一貫して日中友好に尽力した文化人を。本日は内山完造ゆかりの地からのレポートである。
井原市井原町の小田川沿いに「内山完造先生頌徳碑」と胸像がある。
魯迅といえば『阿Q正伝』『狂人日記』が有名だが、最も読まれているのは、教科書でお馴染みの『故郷』だろう。互いをリスペクトする対等な関係を志向していた魯迅が全幅の信頼を置いていた日本人。それが内山完造であった。魯迅の葬儀に際しては、宋慶齢、毛沢東らとともに葬儀委員を務めたという。頌徳碑の裏面には、次のように刻まれている。
内山完造先生は一八八五年後月郡芳井町に生まれ、若くして中国に渡り上海で書店を経営し、魯迅、郭沫若等多くの知名人と多年にわたり親交を深めた。この間不幸にして日中間に戦火が起きたが、先生は常に中立的立場で身を挺して多くの人びとの安全を守った。戦後は日中友好を説いて全国を行脚し、日中友好協会の設立に努め初代理事長に就任、再度中国に渡り在留邦人の引揚げに尽瘁した。
一九五九年病に冒され中国の好意により北京に招かれて手厚い看護を受けたが遂に同年九月七十四歳で不帰の客となった。思えば、先生は真に中国を愛し中国のよき理解者として日中友好に生涯を捧げ、日中国交回復の架け橋となった偉大な先覚者であり、その功績は誠に大である。ここに地元ならびに日中関係者各位のご協力を得て、頌徳碑を建立し後世に永くその偉業を伝える。
題字は中日友好協会長廖承志先生の揮毫である。
一九七九年十月
内山完造先生顕彰会
郭沫若とはどのような人物なのか。内山完造先生は書店の店主だが、日中双方からリスペクトされるほどの偉業を為している。郭沫若先生の偉業もまた一言では言い表せない。彼は詩人であり学者であり政治家でもあった。岡山の第六高等学校でも学んだ文化の巨人は名園後楽園を愛した。戦後になって再訪した際、丹頂鶴がいなくなったことを残念に思い、二羽の鶴を寄贈した。
胸像に向かい合って、郭沫若先生による「内山完造追悼碑」がある。
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内山完造が療養中の北京で亡くなったのは1959年のこと。郭沫若はその3年後に追悼詩を作成している。その詩を刻んだのが、この石碑だ。読んでみよう。
内山完造氏逝去三周年記念
東海之土 西海之花 生於岡山 薀於中華 萬邦友好 四海一家 消滅侵略 幸福無涯
一九六二年四月 郭沫若 書寄
完造先生の葬儀には、京劇の名優梅蘭芳が参列し、石橋湛山前首相からの花輪も飾られたという。石橋前首相はちょうど中国訪問中であり、日中米ソ平和同盟を周恩来首相に提案したところだった。北京で客死した先生が生まれたのは、井原市北部、合併前の自治体では後月郡芳井町域であった。
井原市芳井町吉井に「内山完造先生生誕之地」がある。
生家跡前の道路は旧東城往来で、備中笠岡と備後東城を結んでいた。近くには内山姓のお家があり、先生の生家は「堂ノ上」という屋号で呼ばれていたそうだ。隣には北振バスの沢岡停留所とお堂がある。説明板を読んでみよう。
内山完造生家跡
一八八五(明治十八)年内山賢太郎の長男として生まれ二十八歳のとき上海にわたって一九一七(大正六)年に上海内山書店を開きました。誠実かっ達な人柄が中国人の心をとらえ魯迅・郭沫若などの文化人と親交を深めました。
日中関係の最も険悪・困難な時期に、上海を訪れる日本人の案内役をし、日本の作家たちと中国文学者との交流の場を提供しました。魯迅・郭沫若・郁達夫らとの交友を通じて真実と人道主義を追求し、日中両国の文化交流と友誼のために橋わたし役を果たしました。戦後は日中友好・国交回復実現のために心血を注ぎ、先頭に立って活躍しました。
一九五九(昭和三十四)年、中国人民対外文化協会の招きで訪問中に七十四歳の生涯を閉じ、上海に墓碑が建立されています。
平成十七年三月
井原市教育委員会
最後の部分は、平成の大合併以前は次のように表示されていた。
平成二年三月
芳井町教育委員会
芳井町文化財保護委員会
かつては芳井町ゆかりの偉人、今は井原市の誇る偉人である。先生はこの地に生まれ、化成尋常小学校に入学、精研高等小学校に進学したが、明治三十年十二歳の時、中退したという。この子は勉強よりも働いたほうがよいとの判断だった。
化成尋常小学校は現在の井原市立芳井小学校であり、精研高等小学校は後月郡唯一の高等小学校という期待の学校であったが、井原尋常高等小学校ができると廃校となった。ただし、校名は戦後、精研高等学校として復活したが、現在は井原高等学校に統合されている。「精研」は後漢書何休伝に由来し、「物事の奥義を極める」という意味があるという。
高等小学校中退後は大阪に出て働き、大正二年二十八歳で田口参天堂の上海出張員となり、大学目薬を売り込んだ。結婚後、上海の自宅に妻が小さな本屋を開く。これが内山書店の始まりである。この書店を舞台に完造は中国の文人たちとの絆を深めていく。
魯迅と郭沫若についてはすでに述べた。説明文中に登場する郁達夫について説明しておこう。郭沫若や魯迅の仲間で日本への留学経験もある。八高の系譜を引く名古屋大学では、2015年に郁達夫入学100年を記念した展示会が開催された。
最近、日中関係が好転してきたと言われる。25日に岩屋外相が訪中し王毅外相と会談した。来年の早い時期に王外相が日本を訪問することで一致し、ゆくゆくは首脳の往来を実現したい考えだ。今こそ内山完造先生を顕彰し、日中友好の機運を高めたいものである。
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