令和3年は少し先だが新たなオリンピックイヤーであり、聖徳太子1400年御遠忌の年だそうだ。太子は推古天皇三十年(622)に亡くなったが、母と妃も相次いで没しているから死因は流行り病、天然痘だといわれている。
現在発令中のコロナの緊急事態宣言は5月6日までだが、本当に解除されると思っている人は少ない。ハーバード大学が外出自粛は2022年まで必要との見解を出したそうだ。このままでは国が滅びるのではと心配になるくらいだ。我が国の礎を築いた聖徳太子の没後1400年を気持ちよく迎えたいものである。
加古川市加古川町北在家の鶴林寺(天台宗)の塔頭、浄心院に「不開(あかず)の門跡」がある。壁が一部へこんだ造りになっている。
手前には「聖徳太子十二歳像」があり、よい子の太子がお勉強に励んでいる。どういうことだろうか。石造りの説明板を読んでみよう。
十二歳の聖徳太子が恵便法師を招いて仏教の修学に励まれた「木の丸殿」の門がここにあったと伝えられている。
当時、飛鳥の都では崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が対立していた。また疫病もしばしば流行していた。物部氏は、疫病の流行は異国の神を信奉することが原因、として廃仏を主張し僧侶を弾圧した。これを逃れた高句麗の渡来僧恵便法師は播磨に隠れ住んだ。以前の記事「仏教のパイオニアが彫った石仏」で紹介したとおりである。
蘇我氏に近い聖徳太子くん12歳は仏教が大好き。もっと知りたい!と飛鳥を飛び出し播磨にやって来た。付近の住民はやんごとなきおプリンスの予告なき来訪にびっくり、丸木で急ごしらえの建物を用意した。ここで太子くんは恵便先生から仏教を学んだのである。太子が帰られてから、木の丸殿の門は閉じられたまま朽ち果てたので、不開の門というそうだ。
鶴林寺境内の「太子堂」は国宝である。聖徳太子と関係があるのだろうか。説明板を読んでみよう。
兵庫県下最古の建築で、聖徳太子ご創建の聖霊院(しょうりょういん)の後身として太子堂と呼ばれているが、本来は西方にある常行堂と対をなす天台宗最古の法華堂である。
天永三年(1112)の建築というから、白河上皇の院政期の面影を伝えているのだろう。比叡山延暦寺にもセットになった常行堂と法華堂がある。天台宗に特徴的な伽藍配置らしい。
常行堂と太子堂の間にある「本堂」も国宝である。こちらは応永四年(1397)の建築で、足利義満の時代である。説明板を読んでみよう。
13世紀頃に中国から唐様と天竺様とよばれる新しい建築様式が伝わり、14世紀頃に従来の和様と折衷した様式ができあがった。この本堂はその折衷様式の最もすぐれた建築である。
他にも重文の建造物がいくつもある。この日は「お太子さん」という行事が行われており、多くの人でにぎわっていた。本堂から振り返ると目にも鮮やかな塔がある。
「鶴林寺三重塔」は県指定重要文化財である。室町時代の建築だが、初重は文政年間に大修理が行われているとのことだ。心柱は初重の梁上に立てられている。阪神大震災において兵庫県内に15ある三重塔は1基も倒壊しなかったそうだ。しなやかで強い三重塔はまさにレジリエンスの象徴。12歳の太子くんは聡明さの象徴。コロナと闘う私たちもあやかりたいものである。
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