何度も言うが、NHK大河ドラマ『平清盛』は変革の時代を活写した素晴らしい作品だった。新しい発想によって歴史を動かした先駆者としての清盛を余すことなく描いていた。制作側としては、視聴率が取れなかったのは興行的に失敗だったろうが、視聴者としては、埋もれた歴史を掘り起こした大河ドラマに受信料を支払う価値は十分あった。
たつの市御津町室津に「賀茂神社」が鎮座する。訪れた時、「平清盛ゆかりの地 室津」との幟がはためいていた。
平家の勢力下にあった瀬戸内でも屈指の良港・室津の秀麗な神社である。清盛にゆかりがなかろうはずがない。治承四年(1180年)に高倉上皇は平清盛の願いにより厳島に行幸した。その記録『高倉院厳島御幸記』(源通親)の関連部分が境内に掲示されていた。
平清盛ゆかりの地
平清盛が治承四年(一一八〇)三月に高倉上皇と厳島詣での途中室津に一泊され海上安全と旅の安泰を願い参拝されております。
高倉院厳島御幸記(随行の臣源通親記)岩波日本古典文学大系より
午(むま)の時傾きし程に、室(むろ)の泊(とまり)に着き給。山まはりて、その中に池などのやうにぞ見ゆる。舟どもおほく着きたる。その向ひに家島(いゑしま)といふ泊(とまり)あり。筑紫(つくし)へと聞ゆる舟どもは、風にしたがひてあれには着くよし申(まうす)。室(むろ)の泊に御所造りたり。御舟よせて下(お)りさせ給(たまふ)。御湯など召して、この泊の遊女者(あそびもの)ども、古き塚の狐の夕暮(ゆふぐれ)に媚(ば)けたらんやうに、我も/\と御所近くさし寄す。もてなす人もなければ、まかり出でぬ。
この山の上に賀茂をぞ崇(いは)ゐたてまつりける。御幣(へい)まいらせたまふ。また私(わたくし)にもまいりて、幣たてまつる。年老いたる神殿守(かんとのもり)あり。この社(やしろ)は、賀茂の御厨(みくりや)にこの泊のまかりなりし当時(そのかみ)、ふり分けまい「ゐ」らせて、御験(しるし)あらたなり。社(やしろ)五六、大(おほき)やかにてならび造りたる。鼓(つゞみ)打ちて、ひまなく神なぎども集りて、遊びあい「ひ」たり。これは御道のほど、雨風(あめかぜ)の煩(わづら)ひなどの御祈(いのり)申とぞ聞ゆる。『雲分けむ』の御誓(ちかい)も、思ひかけぬ浦のほとりにたのもしくぞおぼゆる。
治承4年3月22日お昼過ぎに、室津に着いた。ここは周りが山で囲まれ池のように見える。船が多く泊まっている。向かいには家島という港がある。九州へ向かう船は、風の状況によっては、そこに着くのだという。室津には御所を用意しておいた。船が岸に寄り帝が降りられた。湯あみしてくつろいでいると、室津の遊女たちが古い塚に住む狐が夕暮れに化けて現れたかのように、我も我も御所に近付いてきた。だが、相手をする人もおらず立ち去っていった。
この山の上には賀茂の神が祀られており、御幣を奉った。自分も私的に奉幣した。年老いた神職がいる。この神社は室津が上賀茂神社の社領になった時に勧請されたもので、霊験あらたかである。立派な社殿が5つ、6つ並び立つ。巫女たちが集まって鼓を打つなど絶え間なく神楽を奏している。これは、高倉院一行の道中に雨風の煩いがないよう祈っているということだ。思いがけない歓待を受けた室津で、「雲を分けて晴となさん」との院のお祈りも心強く思われたことだ。
瀬戸の輝く海と壮麗な社殿との間で、鮮やかな衣装を身にまとった巫女が華やかな神楽を舞ったのだろう。それは平安の世、華麗なる平家の最終章を彩るページェントであった。
平清盛ゆかりというが、史料の上記引用部には清盛の名は登場しない。しかし、院の厳島行幸の影の主役が清盛である。瀬戸内を配下においた平家の権勢を朝廷に誇示する絶好の機会であった。
時は治承4年3月。この年のうちに源氏が挙兵し内乱状態となっていく。今回紹介した高倉院の行幸では平和裡に西航しているが、数年の後には、戦いに敗れた平家が同じ海を西走するのである。
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