武者と馬の像といえば、ナポレオン騎馬像のようにキメキメのポーズをとるのが一般的だ。このブログでも南朝の忠臣、楠木正成像を紹介したが、やはり馬が跳ねている。
ところが下の写真の武者は馬から降りている。とてもキマっているようには見えない。いったい何をしているのだろうか。
この武者、台座の銘板から「贈従三位菊池武光」の銅像だと分かる。福岡県三井郡大刀洗町大字山隈(やまぐま)の大刀洗公園の中にある。
昭和12年に制作されたようだが、作者がよく分からない。昭和20年3月の大刀洗空襲での弾痕があるので、像がこの地に置かれている意味はさらに深い。
本日の主人公、菊池武光とは何者か。なぜ従三位を贈られ顕彰されているのか。時は正平14年(1359)、懐良親王を奉ずる菊池武光の軍勢八千は、足利方の少弐頼尚、大友氏時らの軍勢六万と筑後川をはさんで対峙する。その後、大保原(おおほばる)で決戦が行われ、菊池武光が勝利し、九州における南朝の覇権を確立するのである。
小郡市小郡の小郡市役所近くに「大原古戦場碑」がある。筑後川の戦いとも大保原の戦いとも大原合戦ともいう。決戦の日は8月7日とも16日ともいう。また、菊池武光の軍勢は八千とも四万ともいう。何が何だかよく分からないが、関が原の戦い、川中島の戦いと並び、日本三大合戦の一つとされる。
戦いが終わって、菊池武光は血の付いた刀を川で洗った。この地を菊池渡(きくちわたし、わたりとも)と呼んだが、今の銅像がある場所がそれだという。つまり、像の武光が馬から降りているのは刀を洗うためだったのだ。武光が刀を洗うと川の水は赤く染まった。大刀洗という河川名や地名はこの故事に由来する。台座にはめ込まれている銘板が赤いのも、そういうことだろう。
太刀を洗ったと伝えられる場所は、福岡県朝倉郡筑前町山隈(やまぐま)にもある。国道500号の山隈交差点に近くの「菊池武光公大刀洗之碑」である。大正12年5月に朝倉郡教育会によって建てられた。
菊池武光が血刀を洗った場所は二か所あり、一方は三井郡、もう一方は朝倉郡にある。伝説の場所が我田引水されるのはよくあることだ。もともと正確な場所を特定できるものではない。どちらも字名は山隈で、ゆかりの川は大刀洗川だ。
この故事を情熱の吟遊詩人、頼山陽が詩にしている。ただし、太刀を洗ったのが筑後川の早瀬であるかのように読める。劇的な効果を狙うとすれば、これもありだろう。鑑賞してみよう。
下筑後河過菊池正観公戦処感而有作
文政之元十一月 吾下筑水僦舟筏
水流如箭万雷吼 過之使人竪毛髪
居民何記正平際 行客長思己亥歳
当時国賊擅鴟張 七道望風助豺狼
勤王諸将前後没 西陲僅存臣武光
遣詔哀痛猶在耳 擁護龍種同生死
大挙来犯彼何人 誓剪滅之報天子
河乱軍声代銜枚 刀戟相摩八千師
馬傷冑破気益奮 斬敵取冑奪馬騎
被箭如蝟目皆裂 六万賊軍終挫折
帰来河水笑洗刀 血迸奔湍噴紅雪
四世全節誰儔侶 九国逡巡西征府
棣萼未肯向北風 殉国剣伝自乃父
嘗卻明使壮本朝 豈与恭献同日語
丈夫要貴知順逆 少弐大友何狗鼠
河流滔々去不還 遥望肥嶺嚮南雲
千載姦党骨亦朽 独有苦節伝芳芬
聊弔鬼雄歌長句 猶覚河声激余怒
筑後河(ちくごがわ)を下り、菊池正観(きくちせいかん)公の戦処(せんしよ)を過ぎ感じて作(さく)有り
文政の元(ぐわん)十一月
吾(われ)筑水(ちくすゐ)を下りて舟筏(しうばつ)を僦(やと)ふ
水流(すゐりう)箭(や)の如く万雷(ばんらい)吼(ほ)ゆ
之を過ぎ人をして毛髪(まうはつ)を竪(た)てしむ
居民(きよみん)何ぞ記せむ正平(しやうへい)の際(さい)
行客(こうきやく)長(とこしなへ)に思ふ己亥(きがい)の歳(とし)
当時の国賊(こくぞく)鴟張(しちやう)を擅(ほしい)まゝにす
七道(しちだう)風(ふう)を望んで豺狼(ざいらう)を助く
勤王の諸将は前後に没す
西陲(せいすゐ)僅(わづ)かに存す臣(しん)武光(たけみつ)
遺詔(いせう)哀痛(あいつう)猶(なほ)耳に在り
龍種(りうしゆ)を擁護(えうご)して生死を同じうせむ
大挙(たいきよ)来たり犯す彼れ何人(なんぴと)ぞ
誓って之を剪滅(せんめつ)して天子に報ぜん
河は軍声(ぐんせい)を乱して銜枚(かんばい)に代え
刀戟(たうげき)相摩(あいま)す八千の師
馬は傷(きずつ)き冑(かぶと)は破れて気益々(ますます)奮(ふる)ひ
敵を斬り冑(かぶと)を取り馬を奪(うば)ふて騎(の)る
箭(や)を被(かふむ)ること蝟(ゐ)の如く目眥(もくし)裂(さ)く
六万の賊軍(ぞくぐん)終(つひ)に挫折(ざせつ)す
帰来(きらい)河水(かすゐ)笑つて刀(かたな)を洗へば
血は奔湍(ほんたん)に迸(ほとばし)りて紅雪(こうせつ)を噴(ふ)く
四世の全節(ぜんせつ)誰(たれ)か儔侶(ちうりよ)
九国逡巡(しゅんじゅん)す征西府(せい/\ふ)
棣萼(ていがく)未(いま)だ肯(あへ)て北風(ほくふう)に向はず
殉国の剣は乃父(だいふ)より伝う
嘗(かつ)て明使(みんし)を卻(しりぞ)けて本朝(ほんてう)を壮(そう)にす
豈(あ)に恭献(きやうけん)と日を同じうして語らんや
丈夫(ぢやうぶ)の要(えう)は順逆(じゆんぎやく)を知るを貴(たうと)ぶ
少弐(せうに)大友(おほとも)何の狗鼠(くそ)ぞ
河流(かりう)滔滔(たふ/\)去つて還(かへ)らず
遥かに望む肥嶺(ひれい)の南雲(なんうん)に嚮(むか)ふを
千載(せんざい)の姦党(かんたう)骨も亦(ま)た朽(く)つ
独(ひと)り苦節の芳芬(はうふん)を伝ふる有り
聊(いさゝ)か鬼雄(きゆう)を弔(とむら)うて長句(ちやうく)を歌へば
猶(なほ)覚(おぼ)ゆ河声(かせい)の余怒(よど)を激(げき)するを
文政元年(1818)11月、私は舟をやとって筑後川を下った。水の流れは矢のように速く、その音は雷の鳴るようだ。ここを通る者は恐ろしくて髪の毛が逆立つだろう。地元の人は知らないかもしれないが、私は正平14年(1359)の筑後川の戦いを思い出さずにはいられない。
当時は国賊の足利氏が権勢をほしいままにし、その威勢に恐れをなし国じゅうの者が彼奴らに従っていた。楠木正行、北畠親房など勤王の諸将が相次いで亡くなり、今や九州の菊池武光を残すばかりとなった。
武光は後醍醐天皇の哀切な遺詔が今なお耳に残っており、懐良親王をお守りして生死を共にする覚悟でいた。 そこへ、大挙して親王を討とうとする奴らが現れた。いったい何者か。見れば少弐頼尚の軍ではないか。必ずや彼奴を殲滅して天皇に報いようぞ。
川の轟音が軍勢の発する音と入り乱れ、音を立てぬようにする道具を使う必要もない。刀と鉾が擦れ合う激戦をするのは我が八千の軍勢。馬は傷つき兜は壊れたが、戦意は益々高揚し、敵を斬って兜を獲り、馬を奪って乗りまわす。矢を全身に受けハリネズミのようになり、まなじりが裂けた。このような奮闘をへて、ついに六万の賊軍は敗れ去ったのである。
戦場を離れホッとして、血の付いた刀を川の水で洗えば、血は激流に流れ出て、赤い雪を吹き散らすかのようだ。
菊池氏四代(武時、武光、武政、武朝)の忠節に他に誰が匹敵するというのか。九州の武将は足利氏につくのをためらい征西府に従った。菊池兄弟(武光、武敏、武重ら)はどんなに苦しくとも決して北朝には降らなかった。殉国の精神は父武時から受け継いだものである。
武光はかつて無礼な明の使者を追い返して我が国の矜持を保った。明から恭献王の諡号を贈られた足利義満とは、とても一緒に論ずることはできない。男子たるものは物事の順逆をわきまえることが大切だ。少弐頼尚や大友氏時など犬畜生ではないか。
川は滔々と流れ再び帰らない。南には遥か肥後の連山が雲間に見える。長い歳月を経て、悪逆無道の少弐や大友の事績は朽ち果てたが、菊池武光が苦しい中にあっても忠節を尽くした美談は語り伝えられている。にわかに武光の霊を弔ってこの長句を歌えば、筑後川の早瀬の轟音が武光の義憤を伝えるかのように聞こえるのだ。
足利、少弐、大友の諸氏は気の毒なくらいに貶められている。悪役を仕立てることでヒーローは際立つのだから、文学としてはこれでよいだろう。武具の鳴る音、赤い雪かのような飛沫、そして遠くの肥後連山。これらを包むのが筑後川の瀬音である。史実はさておいても、一編のドラマの如く展開する名吟である。
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