『紫電改のマキ』という漫画がある。名機・紫電改でヒコーキ通学する女子高生が、制空権をライバル校から守る物語だ。『ガールズ&パンツァー』や『艦隊これくしょん』などのように、ミリタリーと萌えの要素の混ざったミリ萌え系の平和な作品である。悲惨な戦争は現実からずいぶん遠いところで楽しむのがいいのだろう。
加西市鶉野(うずらの)町に「姫路海軍航空隊鶉野飛行場跡」がある。写真は「平和祈念の碑」がある場所である。飛行場跡は航空写真で見るとよく分かる。1200m×60mの滑走路だった。
姫路海軍航空隊は、昭和18年10月1日に開設され、訓練を主な任務とした。沖縄戦においては特攻隊「白鷺隊」が編成され、この飛行場で訓練を重ねた若者が出撃していった。
現在は陸上自衛隊鶉野訓練場という位置付けだが、加西市は防衛省に払い下げを要望している。市民のために有効な活用が図られるとともに、一部は戦争遺跡として保存されることになると思われる。平成27年度予算にも関連の費用が盛り込まれているようだ。
もともとこの地に軍事施設はなく、戦争が始まってから地元の多大な協力により飛行場が建設されたのである。当時の様子を「平和祈念の碑」の後ろにある石碑で読んでみよう。
飛行場建設に協力した地元の人々
播磨平野中部丘陵の加西郡九會村中野、鶉野、宮木と下里村野条一帯は、鶉鳴く農村地帯であった。
昭和十六年十二月八日、西太平洋で始まった米、英国との戦いにおいて、航空機によるハワイ真珠湾攻撃が成功し、海軍は、航空機搭乗員の訓練を目的として全国各地に練習航空隊を設置することになり、この地も候補に上がった。
一般民家、企業が立退きの対象となり、昭和十八年一月上旬より土地買収及び家屋移転等の承諾調印が行われた。工事が始まり、地元加西郡はもとより近隣町村より勤労奉仕団、国民学校、中学、女学校の学徒動員の生徒、また朝鮮の人達の献身的労働により、僅か一年余りの作業で飛行場は完成した。
そして、全国より配属されて来た若き操縦練習生たちは、日夜飛行訓練に精を出した。訓練合間の休日には地元の人々は彼らを暖かくお世話をした。
昭和二十年に入ると、この鶉野にも米艦載機が飛来し、飛行場は言うに及ばず周辺の民家にも攻撃を加え、一般住民にもかなりの被害が出た。戦争は我が方に利あらず、八月十五日に戦争は終わった。そして元の静かな鶉野に戻った。この平和をいつまでも続けるため、ここに飛行場設置に協力した多くの人々の労苦を後世に残し、碑を建立するものである。
滑走路の周辺には防空壕が残っている。下の写真は基地内最大のものである。
航空隊基地の建物があったこの周辺は、現在神戸大学の農場であり、農学研究科附属食資源教育研究センターがある。上の写真は戦争と平和を対比しているかのように見える。
ここから北の辺り、滑走路の近くに川西航空機株式会社姫路製作所鶉野組立工場があった。昭和17年7月に設立された姫路製作所には完成機を飛ばす飛行場がないため、昭和19年8月に鶉野組立工場がつくられた。
姫路製作所では「紫電」が446機、その改良機である「紫電改」を44機製造した。終戦時に残存していた紫電改は13機だったという。
かつて播磨空港計画というのがあった。姫路北部の広峰山に2000mの滑走路を建設しようとする壮大な計画だったが、平成14年に撤回された。広峰山が候補地となるまでは、鶉野飛行場の跡地の活用も考えられたそうだ。
戦闘機から旅客機へ、ここにも戦争から平和へと時代の変遷を見ることができる。ただ、播磨空港の代わりに開港した神戸空港は、スカイマークの破綻によって先行きに不安が広がっている。播磨空港も同じ状況に陥っただろう。
派手な施設をつくるのも活性化なのかもしれないが、特攻隊あるいは紫電改ゆかりの地として、静かに平和を祈念する場所であってほしいものである。もしかしたら『紫電改のマキ』の愛読者が聖地巡礼にやってくるかもしれない。これも平和を享受する日本人の姿である。
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