うちでは昔、イグサをつくっていた。夏の刈り取り作業は「ゆかり」といって大変な重労働だったため、県北から人夫さんに来てもらっていた。西粟倉だったか東粟倉だったか、あのあたりだったと記憶している。
今年もうだるような夏がやってくる。地面も空気も建物も熱がこもって、どこにも逃れようがない。熱帯夜とはよく言ったもので、熱帯に住む人々は眠れているのだろうかと心配してしまうくらいだ。少しでもひんやりしたものを求め、寝ござを敷いてみる。さらっとした肌触りとイ草の香りは、夏ならではの心地よさだ。本日はゴザ発祥の地の探訪である。
倉敷市松島の両児神社の麓に「藺草記念碑」がある。「犬養毅題」とあるから、題書は地元で大人気の政治家、犬養木堂である。
裏には「皇紀二千六百年記念」「原福蔵刻」とある。紀元二千六百年は昭和15年、五・一五事件は昭和7年だから、揮毫と建碑にはタイムラグがある。原福蔵を試みに検索すると、早島町早島にある鶴崎神社の狛犬(昭和八年)の作者としてヒットするから同一人物だろう。その狛犬の雄姿がこれだ。
岡山県南はかつて、イグサの一大生産ととして知られていた。ところが、水島からやってくる公害の所為か上流から流れ込む汚水の所為か、イグサの先枯れが起きるようになり、うちも周囲も生産をやめてしまった。
それでも手話で「岡山」は、指をはじきながら両手を交差させる仕草をするが、イグサを編む動きをイメージしているとのことだ。イグサとイ草製品の生産は今も岡山の誇りである。
そして、あのゴザも岡山が発祥の地だというから、ご当地自慢の一つになるだろう。『庄村誌』第4章産業「茣蓙」の項には、次のように記されている。
確かな旧記がないので何ともいえないが、口碑の伝えるところでは、神功皇后が高鳥居を御旅館とせられたとき、この浦の老婆が谷に生えている藺草を編んでその御座に敷いたのが茣蓙の始まりであると伝えている。しかし、この当時の茣蓙は経緯ともに藺草を使っていたのであるが、備後の国の多助という人が、この茣蓙八幡に詣でて、その由来を聞き、さらに研究してたて糸に野生の麻草をとり、これを紡績して使う事を考えついて現在のような畳表を作るようになったといわれている。
この地に滞在された神功皇后の御座として献上した敷物が茣蓙になったという。しかも有名ブランド備後表のルーツとされているのだ。かなり宣伝色が強いように感じるが、それだけ誇りを抱いていたのだろう。
両児神社は明治4年に現在の名称となるまでは、五座八幡宮と呼ばれていた。というのも御祭神として伊邪那岐大神、伊邪那美大神、天照大神、月夜見大神、品陀和気尊(応神天皇)の五柱をお祀りしているからだ。五柱の五座、神功皇后の御座、敷物の茣蓙と、ゴザが通じ合うことから、ゴザの発祥伝説が生じた。背景はそんなところではないか。
暑い夏がやってくると、思考が停止し涼感を求める本能だけが働く。肌で冷感を感じるのがいいが、見た目に涼しいのもよい。その点、繊細なイ草で編まれた薄緑の茣蓙は、万物暑中涼一点であり、喘ぎつつ暑中に涼を求める私にとって、救いの神に他ならないのである。
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