城郭ファンならずとも天守閣を見ると観光した気分になれる。しかし,江戸時代から残る本物の天守は12しかない。多くは廃藩置県後に解体されてしまう。今から思えば“もったいない”のだが,屋根が波打ち白壁は剥げ落ちるなどボロボロの建物,無用の長物と思われたのも仕方ない。
尼崎市南城内の尼崎市立明城小学校の隅に「尼﨑城址」の石碑が建てられている。石丸みを帯びているのは,旧城橋脚の柱石を利用しているからだそうだ。「昭和大典記念」とも刻まれているので,昭和初期の建碑である。
目の前を阪神高速が通り,城郭の面影はまったく残っていない。尼崎城も他の多くの城と同じく,廃城令直後から櫓は解体され堀は順次埋め立てられていった。
何もないと白けてはいけない。明城小学校の校庭には,ミニチュアの模造天守がある。最近の総合的な学習の時間に制作したものかと思ったら,ずいぶんと歴史があった。天守の隣に立つ解説板を読んでみよう。
江戸時代、尼崎城は大阪城の西を守る役目のため譜代(ふだい)大名 戸田氏鉄(うじかね)が元和(1617)から数年かけて築いたものです。領地は4郡(川辺・武庫・兎原(うはら)・八部(やたべ))111村の広さで5万石でした。城域は現在の北城内、南城内の約300メートル四方あって、西は庄下川、東は大物運河を外堀とする三重の堀に囲まれ、本丸(現在の城内小・中学校々庭内)には、高さ18メートルの四層の天守閣(現在の城内中学校正門東付近)が築かれていました。その姿は海上に浮かんでいるように見えたので、浮城とか琴浦城などと呼ばれたそうです。この天守閣の模型は、昔の写真をもとに木形を作り、コンクリートで固めたもので、昭和15年(1940)4月から7月まで1学期間かけて教職員と児童が一緒になって 苦心して製作されたものです。
よく見ると,周囲に堀までつくられた本格的な模型であった。「現在の城内小」とはかつての校名で,現在は開明小との統合により明城小となっている。
昭和15年当時の校名は尼崎城内尋常小学校だったが,翌年には尼崎城内国民学校と改称される。この小さなお城は,軍靴の響き高まる時期に少国民が制作したものとはいえ,いささかも軍国主義的な雰囲気はない。むしろ,遺構がほとんどない尼崎城の往時を今に伝えてくれる貴重な模型であり,子どもたちが協力することを学んだ教育遺産といってもよいだろう。