てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた
安西冬衛の「春」という一行詩である。はかない蝶が荒々しい韃靼海峡を渡る。大小、強弱の見事な対比、見たこともない風景なのに見た記憶となるように映像化できる。そもそも韃靼海峡という名称自体で想像が掻き立てられる。どこのことかと思えば、間宮海峡。外国ではタタール海峡と呼んでいる。
江東区平野二丁目に「間宮林蔵の墓(間宮林蔵蕪崇之墓)」がある。蕪崇は号で名を倫宗(ともむね)という。
東京府指定の史蹟にしては新しい墓だと思えば、東京大空襲によって損壊したため間宮家にあった「墓搨(拓本)」をもとに昭和21年に再建されたものであった。戒名は「顕実院殿拓北宗園日成大居士」である。拓北が彼の仕事を如実に表している。相原秀起『新サハリン探検記 間宮林蔵の道を行く』(社会評論社)に分かりやすく語ってもらおう。
その男の名前は間宮林蔵(一七五五~一八四四)。
男が発見した海峡は、後になって「間宮海峡」と呼ばれ、日本人の名前が世界地図に書き込まれた最初のものになった。林蔵の二年間にわたる探検の旅路は約五〇〇〇キロにも及んだ。古典的な探検とは「地図上の空白を埋める行為」。過去、日本人による探検の歴史で中で林蔵を超える功績は思い当たらない。
墓にある江東区教育委員会設置の説明板からも引用しよう。
文化五(一八〇八)年、幕命により松田伝十郎とともに樺太(サハリン)を探検した林蔵は翌年七月ニ日単身樺太からシベリアへ渡って沿海州に入り、黒竜江(アムール川)をさかのぼりデレンに達しました。この十五ヵ月間におよぶ探検で、樺太が島であることが明らかとなりました。
林蔵は後に間宮海峡と命名される海峡を欧州人にさきがけて発見したことにより、地理学者、探検家として世界的に有名となりました。
ここでデレンという地名がさらりと登場するが、高橋大輔『間宮林蔵・探検家一代』(中公新書ラクレ)によると現在のノヴォイリノフカという場所らしい。グーグルマップなら見つけることができる。林蔵はこの地で行われる進貢と交易の様子を記録している。デレンは当時清の支配下にあった。林蔵はロシアとの境など国際関係を知りたかったようだ。
間宮林蔵は幕府のスパイでシーボルト事件の密告者である、と言われる。小島一仁『伊能忠敬』(三省堂選書)は次のように評価している。
間宮林蔵は、幕府の命に従って、北方の調査探検を行っただけの人物であり、勇敢で「大剛の者」であったかもしれないが、学問的真理の追求には、全く目を向けなかった。そのために、後に述べるように、忠敬の死後、いわゆる“シーボルト事件”のときに、日本の学問の発展に大きな打撃を与える役割を果すようなことになってしまった。その意味からすれば、林蔵は、忠敬にとって、不肖の弟子であったということになるであろう。
「学問の発展に大きな打撃」とは厳しいが、林蔵はシーボルトから幕府天文方・高橋景保経由で送られた小包を開かずに幕府に提出しただけのことである。これは外国人と文書や物品をやり取りする場合には幕府の許可が必要だったからだ。その後、景保はシーボルトに禁制品の地図を渡したとして捕縛牢死(死後さらに死罪判決)し、シーボルトは追放される。
景保がシーボルトに情報提供していることを、仮に林蔵が知っていたとしても、それは外国人への機密漏洩なのだから幕府へ報告するのは当然だろう。シーボルト事件は景保のほか多くの関係者が処罰されたが、単なる学問の自由を奪った弾圧事件ではない。景保にしてみれば純粋に学問的な交流であったかもしれないが、国家の安全保障を危うくするスパイ事件と見ることもできる。(参考:赤羽榮一『間宮林蔵 北方地理学の建設者』清水書院)
林蔵が探検・調査する前には「ヨーロッパ人にとっても、北カラフトは、両極を除いてはただひとつ残されていた世界地図上の疑問地点であった」(洞富雄『人物叢書新装版 間宮林蔵』吉川弘文館)とすれば、林蔵はまさに世界地図を完成させた男なのである。
明治37年4月22日、間宮林蔵に正五位が贈位された。時あたかも日露戦争の最中で北方に関心が向いていた時代である。北方開拓の先駆者だとか幕府のスパイだとか、持ち上げたり落としてみたりしては気の毒だ。現地の人々と交流を深めながら所期の目的を果した行動力こそ人として賞賛に値するものであろう。
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