自由になりたいと思ってもなかなかそうはいかない。心配なことはあるし、したいことはあるし、時間もないし金もない。歳はどんどんとっているし胃の調子も悪いし長生きできるか覚束ない。人に生老病死の憂患(うげん)ありである。
京都府相楽郡笠置町大字笠置小字笠置山の笠置寺に「解脱鐘」がある。国指定重要文化財である。
解脱とは煩悩から解き放たれることだが、そんな境地に達することはないと思う。しかし、この笠置寺には解脱上人と尊称される高僧がおいでになった。貞慶(じょうけい)という興福寺の学僧で、建久4年(1193)に笠置寺に隠棲した。解脱鐘と解脱上人の関係について、笠置町ホームページの笠置寺見どころガイドには次のように記されている。
解脱鐘
六つに切り込まれている日本では一つしかない珍しい鐘で、1196年に東大寺の俊乗坊重源が作り、笠置寺解脱上人に寄進されたもの。
東大寺を再建した重源上人ゆかりの梵鐘でもあった。梵鐘の最下部を駒の爪というが、解脱鐘の駒の爪下面には「建久七年丙辰八月十五日大和尚南無阿弥陀仏」とある。この南無阿弥陀仏という大和尚が重源上人である。
南無阿弥陀仏といえば、今年が800年大遠忌であった法然上人の称名念仏が思い浮かぶ。ひたすら阿弥陀仏の名を称えよ。専修念仏、つまり専念である。御仏の名を称えることで誰でも救われるという分かりやすさは人々の心を捉え、日本仏教の一大潮流を形成していくこととなる。
重源は自ら南無阿弥陀仏と称したように、法然の活動に深い理解を示していた。これに対して解脱上人、貞慶は別の立場から深い憂慮を抱いていた。
我が国にはすでに8つの宗派がある。新しい宗派など必要ないし、もし宗派を立てるなら勅許が必要ではないか。阿弥陀仏ばかり尊び釈迦牟尼仏を軽んじているのではないか。念仏は仏を心の中で念じるものであろう。仏の名を口で称えることを念仏だという考えはおかしい。
元久2年(1205)、法然の布教活動に対する批判は9箇条にまとめられ、専修念仏の禁止と法然に対する処罰を求めた副状とともに朝廷に提出された。「興福寺奏状」である。貞慶はその起草者であった。建永2年(1207)、法然は流罪となる。
時代の流れを知っている私たちから見ると、貞慶は抵抗勢力といえる。しかし、時代の流れは過去を振り返って初めて分かることだ。当時の貞慶にとって、法然は教えを曲解し民衆を惑わす不届き者に思えた。貞慶は唯識思想に立脚し「自分」とは何かを哲学した学究の徒である。また、保元の乱で勝利し権勢を誇った藤原信西を祖父に持つ貴人でもある。立ち位置が違えば、見え方もおのずから異なるものだ。
写真は駒の爪の刻字である。「諸行無常(しょぎょうむじょう)」「生滅々已(しょうめつめつい)」が読み取れる。雪山偈(せっせんげ)とも諸行無常偈ともいう4句の偈の一部である。すべてのものは移ろい行くこと、移ろいが已(や)んで悟りの境地に至ること。仏教の根本教義の一つである。
いろは歌の意味するところはこの諸行無常偈だという。すなわち「色は匂へど散りぬるを」は「諸行無常」、「有為の奥山けふ越えて」が「生滅滅已」に相当する。この梵鐘は解脱上人ゆかりだから「解脱鐘」というのかと思っていたが、銘文の意味するところも解脱であった。
この梵鐘のように駒の爪下面に刻字されるのは珍しい。他には長野県小海町の松原諏訪神社上社の「野ざらしの鐘」くらいだそうだ。こちらも国指定重要文化財である。
また、六つの切り込みがある六葉鐘であることも珍しい。「日本では一つしかない」と笠置町ホームページでは説明されているが、東大寺勧進所に伝わる梵鐘も同形式のものらしい。
山寺で出会った一つの鐘からたくさんのことを教えてもらった。今年も大晦日の除夜の鐘として撞かれる。諸行無常の響きがするに違いない。
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