岡山の人なら誰もが知る「妹尾」は、全国的には難読の地名とされているそうだ。「せのお」と読む。
「妹背(いもせ)」という古語は、妹と兄を意味しており、「いも」は妹、「せ」は兄である。「兄」である「せ」が、岡山では「妹」になっている。古典の『とりかへばや物語』か、映画の『転校生』か、男女逆転の地名である。
岡山市南区妹尾(せのお)に「伝洲浜(すはま)城趾」がある。妹尾を語る会によって平成24年に郷土の史跡として整備され、10月14日に完成式が行われた。
写真に赤旗が写っていることから分かるように、平家方にして地元の武将、妹尾(せのお)太郎兼康(かねやす)ゆかりの場所である。ただ、時を経て、旗は落ち、残ったものも色褪せている。平家の末路を象徴するかのようだ。
写真正面の標柱には「妹尾太郎兼康公居館趾」とある。「兼康公」と地元で敬愛されている妹尾兼康とは、どのような人物なのか。詳しいことを説明板に語ってもらおう。
妹尾は平家の大将の一人「妹尾(瀬尾とも言う)太郎兼康」の領地であったと伝えられている。
現在城趾と思われるところは、地元では「稲荷山」と呼んでおり、お稲荷様が祀られていた。このあたりは広々とした平野が続き、穀倉地帯をなしているが、かっては「吉備の穴海」と言う干潟で漁業が盛んに行われていた。
兼康公の母は瀬尾兼門(せおかねかど)の妹保子である。兼門は太治元年(一一二六)滅んだが、保子だけは鳥羽上皇の宮女として仕え、上皇の御子を宿していたため許されて、平忠盛(清盛の父)に預けられ、上皇の御子を産んだと伝えられている。これが妹尾太郎兼康公である。
兼康公は十六歳で妹尾に入り城を築き「洲浜城」と称していたと伝えられている。兼康公は土木技術にも優れたものを持っており、高梁川を水源とした「湛井(たたい)十二ヶ郷用水」の整備は特に有名で、地元では開発領主として名を残している。
驚いたことに、妹尾兼康は鳥羽上皇の御落胤だという。平清盛も大河ドラマでは白河上皇の御落胤として描かれていた。歴史上の人物の出生には謎が多いうえ、権威を高めるために物語が創作されることもある。兼康の伝承も貴種流離譚の一つかもしれない。
兼康は平家方の有力武将として、『平家物語』では殿下乗合事件(平氏vs藤原氏)以来、何度も登場している。巻第一「殿下乗合」には次のように紹介されている。
片田舎の侍どものこはらかにて、入道殿の仰(おおせ)より外は、又恐しき事なしと思ふ者ども、難波(なんば)妹尾(せのお)を始として…
「いなか出身で荒々しく、清盛の言うこと以外は怖いものなしの者ども、難波、妹尾をはじめとして」と地方の荒くれ者に描かれている。おそらく史実はそんなところだろう。
クライマックスは巻第八「瀬尾最期」である。寿永二年(1183)、木曽義仲が入京し平家を西国へ追い落とした。しかし水島合戦で、義仲の派遣した源氏方が敗れ、その勢いが止まってしまう。これに危機感を持った義仲は一万騎で山陽道を下った。
義仲の軍勢には、北陸での戦いで生け捕りにされた妹尾兼康がいた。兼康は次のように言って義仲勢を安心させた。
自今以後御戦候はゞ、木曾殿に命参せん。兼康が知行仕り候し備中の瀬尾(せのお)は、馬の草飼(くさかひ)好い処で候。
これから戦いがあれば、木曽殿に命を捧げましょう。私の領地であった妹尾は、馬の餌となる草が豊富です。
これは策略で、兼康は勝手知ったる備前国に入ると義仲勢を裏切り、笹ヶ瀬(岡山市北区津島笹が瀬)で義仲勢を待ち伏せた。しかし、そこを突破され板倉川のほとり(岡山市北区吉備津)に退いたが、またも打ち破られる。
ついに、兼康、その子小太郎宗康、郎等の主従三人となってしまう。子の宗康は肥満体で足を痛めて動けなくなってしまった。この続きは、『平家物語』よりドラマティックな『源平盛衰記』巻第三十三「兼康板蔵城戦ひの事」で読んでみよう。子の宗康は兼通、郎等は宗俊という名になっている。
敵近く攻め寄せければ、兼康又思ひ切り、深く山へ落ち入りけるが、眼(まなこ)に霧雨(ふ)りて進まれず。郎等宗俊を呼びて、「兼康は数千人の敵に向ひて戦ふにも、四方晴れて見ゆれども、小太郎を捨てて落ち行けば、涙にくれて道見えず、兼ては相構へて屋島に参りて、今一度君をも見奉り、木曾に仕へし事をも申さばやと思ひつれども、今は恩愛の中の悲しければ小太郎と一所にて討死せんと思ふは如何あるべき。」と云ふ。宗俊、「尤(もっと)もさこそ侍るべけれ、弓矢の家に生まれぬれば、人毎に無き跡までも名を惜しむ習ひなり、明日は人の申さん様は、兼康殿こそいつまでも命をいきんとて、山中に子を捨て落ち行きぬれといはれん事も口惜(くちお)しき御事なるべし、主を見奉らんと覚(おぼ)すも子の末の代を思召(おぼしめ)す故なり、小太郎殿亡び給ひなんには、何事も何かはし給ふべき、只返し合はせて、三人同心に一軍(ひといくさ)して、死出(しで)の山をも離れず御伴(おんとも)仕らん。」と云ひければ、兼康、「然るべし。」とて道より帰り、足病み居たる小太郎が許にゆき、前には柴垣(しばがき)を掻き、後には大木(たいぼく)を木楯(こだて)にして敵を待つ処に、木曾左馬頭、三百余騎にて跡見(あとみ)に附きて尋ねけるに、兼康爰(こゝ)に在りとて、幾程(いくほど)助かるべき事ならねど、小太郎を後(しりへ)に立てて、我が身は矢面(やおもて)にさし顕(あら)はれて、差詰(さしつ)め/\散々に射る。十三騎に手負せて馬九匹射殺し、矢種も又尽きければ、今はかくとて腹を掻き切りて失せにけり。小太郎兼通も引取り/\射けるが、父が自害を見て、同じ枕に腹切つて臥しにけり。郎等宗俊も手の定まり戦うて、柴垣に上つて、「剛のものの死ぬる見よや。」とて、太刀の切鋒(きつさき)口に含み、逆(さかさま)に落ち貫かれてぞ死ににける。木曾は妹尾父子が頸を切り、備中国鷺森(さぎのもり)に懸りて引退(ひきしりぞ)く。
敵が近くに攻め寄せてきたので、兼康は我が子の小太郎への思いを断ち切って、深い山に落ち延びていったが、目が涙でかすんで進めない。郎等の宗俊を呼んでこう言った。
「わしゃあ数千人の敵と戦こうても、四方がよう見えたけえど、小太郎を見捨てて逃ぎょうたら、涙で道が見えんようになった。前から、よう気う付けて屋島へ行って、もっぺんお殿様にお会いして、木曾に仕えたことを話そうかと思うたけど、親子の別れがつろうて、小太郎といっしょに討死しょうかと思うんじゃけど、どうじゃろうか」
宗俊はこう答えた。
「もっともなことです。武士に生まれたら死んでも名誉を傷つけんもんです。このままだと、明日にゃあ、『兼康は命が惜しゅうて、山の中に子を捨てて、逃げてしもうたで』と言われるでしょう。そねえなことは、くやしすぎます。お殿様にお会いしたいと思うのも、ご子孫を思ってのことです。小太郎さまが亡うなっては、何ができましょうや。引き返して我ら三人で戦い、あの世でもご一緒しましょうぞ」
兼康は
「そうじゃな」
と、道を戻って、足を痛めた小太郎のもとへ行き、周囲にバリケードを築いて敵を待った。そこへ木曾義仲が300騎余りで追いつくと、
「兼康、ここにあり」
と、もはや生き永らえることはできないながらも、小太郎をかばいつつ、敵の正面に向かって、矢を次々につがえて射まくった。13騎をやっつけ馬9頭を倒したところで、矢が尽きてしまった。そして
「もはやこれまで」
と腹をかき切って死んだ。小太郎も敵を引き寄せては次々と矢を射たが、父の自害を見て、同じく腹を切って死んだ。郎等の宗俊は覚悟して戦い、バリケードにのぼって
「本物の武士の死にざまを見ろや」
と刀の先を口に含んで、まっさかさまに飛び降り、刀に貫かれて死んだ。木曾義仲は妹尾親子の首を切って、備中国鷺森にさらして退却した。
これが寿永二年(1183)閏10月14日のことである。伝洲浜城趾の完成式が10月14日に行われたのは、兼康の命日だからである。
岡山市南区妹尾の盛隆寺に「妹尾太郎兼康頌徳碑」がある。
このあたりは妹尾の中心地である。石碑には「大険院殿平将邦助兼康大居士」という戒名が刻まれている。
岡山市南区に「伝妹尾太郎兼康館跡」があり、「伝兼康墓」が祀られている。
ここは兼康の別邸があった場所だという。
そして、これが本当の墓である。岡山市北区吉備津に「伝妹尾(瀬尾)太郎兼康供養塔」がある。
背後にある市立鯉山小学校には、かつて道勝寺があった。寺は廃寺になったが、安永八年(1779)11月に建てられた石碑が残っている。
「当寺けい内にせ乃太郎か禰や寸のは可志よあり」と刻まれている。平成8年8月11日付けの山陽新聞が、この場所における大発見を報道した。熟年男性の頭骨が出土し、それは妹尾兼康の可能性が高い、というのだ。
兼康の家臣、陶山道勝(すやまみちかつ)が屍を城跡(板倉城)に埋めて、供養のために寺を建てたという。これが道勝寺であった。陶山氏は笠岡を本拠とする平家一門である。
この地から発掘された兼康の頭骨には、刀傷や人為的な破損の痕跡が顕著に認められ、合戦で斬首されたとも考えられるという。
『平家物語』や『源平盛衰記』の叙述は、必ずしも脚色ではないのだ。激しい戦乱のシーンが本当ならば、涙を誘う親子の情、主従の絆もまた真実を描いているはずだ。我が子を置いたまま行くならば、そりゃあ、「涙にくれて道見えず」だろう。
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