スター・ウォーズならカイロ・レン、忠臣蔵なら吉良上野介。ヒールとか悪役とか悪玉とか、娯楽には欠かせないキャラクターだ。俳優のやるお芝居なら役柄に合うように演技して、観客の憤りを買えばしめたものだ。
しかし、歴史上の人物の場合、あえて悪役になろうとした人はいない。本人は真剣に自分の人生を生きただけである。だが、世の人はそれを曲解して、憎たらしい奴、怪しい奴、秩序を乱す不埒者と見なすだけだった。悪役の誕生である。
静岡市葵区沓谷(くつのや)の菩提樹院(ぼだいじゅいん)の境内に「由井正雪之墓所」がある。門前には「由比正雪首塚」とある。「由井」は「由比」とも書く。
ここは葵区だが、そういえば今年の赤ちゃんの名前、女の子第1位は「葵(あおい)」ちゃんだそうだ。徳川の平和な世を懐かしんでいるのか。いや、関係ないだろう。
首塚の隣には「由比正雪公像」がある。敬意を表して名前に「公」を付している。悪役ではなく偉人なのだ。ただ、酸性雨のせいか、肌が荒れ気味で気の毒だ。
江戸時代に興味のある方なら、「由井正雪の乱」と聞いたことがあるだろう。乱を起こした謀叛人で、総髪の妖しい軍学者、そんなイメージだ。いったいどのような人物なのか。説明板を読んでみよう。
由比正雪公首塚
幼名を久米之助という。十五年(一六一〇)駿府宮ヶ崎の紺屋に生れ、幼少より書を好み一七才の時江戸に出て、楠不伝に楠流軍学を学びその秘法を伝授され、牛込に道場を構え軍学を指南せり。時に徳川幕府の悪政を改革せんと幕府転覆を計り自ら久能山に立籠り、東西の同志に号令せんとせしが事寸前に露見し、慶安四年(一六五一)七月廿六日梅屋町の旅籠梅屋勘兵エに於て捕り方に包囲され辞世の句を残し同志九名と共に自刃せり。時に正雪四十ニ才、同志と共に安倍川畔にさらし首にせられしを縁者の女人秘かに之を盗み去り寺町(現常磐公園)菩提樹院に葬りしが即ち首塚なり、因に正雪公首塚は都市計画により昭和廿一年当寺が現地に移転と同時に移転された。
生まれは今の静岡市葵区宮ケ﨑町というが、同市清水区由比の正雪紺屋が生家だとも伝えられる。軍学者として江戸で成功したが、幕府の悪政を改革せんと政府転覆を図ったのである。事実とすれば刑法78条の規定する内乱陰謀罪が摘要されるおそれがある。正雪の正義はどこにあるのか。
17世紀半ばの江戸では、人口急増に伴う雇用問題が深刻化していた。江戸城築城をはじめとする都市建設が一段落し、就業機会のない労働者の不満が高まっていた。また、相次ぐ大名の改易で、仕官先を失った浪人が巷間に溢れていた。この状況に対し、雇用機会の創出やセーフティネットの構築など、幕府は必要な措置を講じてこなかった。
無策な幕政に、まず行動を起こしたのは三河刈谷藩主・松平定政だった。慶安四年(1651)4月20日、将軍の中の将軍、徳川家光が死去。世子の家綱はまだ11歳。これを定政は行動に出るチャンスと捉えたに違いない。7月10日、困窮する旗本の救済を訴え、領地を返上のうえ出家したのである。身を挺しての訴えにもかかわらず、18日、幕府は精神異常と見なしての所領没収で応えた。
時を同じくして、正雪もまた幕政に憤りを高めていた。浪人は次のチャンス到来をうかがっていた。御政道を正すために実力を行使する。正雪の義憤と浪人の期待が一致したのである。
幕府転覆計画は次のとおりだ。江戸で丸橋忠弥が火薬庫を爆破、その混乱に乗じて江戸城に侵入し将軍の身柄を確保、駿府にお連れする。駿府では正雪が、久能山の金銀を奪取、駿府城を占領して将軍を迎える。京都では加藤市郎右衛門が、江戸と同様に二条城を乗っ取る。大坂では金井半兵衛が、市中を焼討し蔵屋敷の米を奪取、大坂城を占領する。4都市同時蜂起の壮大な計画であった。
決意を固めた正雪が江戸を発ったのは7月22日。しかし、密告により翌日には江戸の丸橋忠弥が捕縛、26日には上記のとおり正雪が自刃、その他の仲間も捕縛され、8月10日に処刑された。正雪は遺書に「恐乍ら天下の政道錯乱上下困窮仕る事誰か是を悲しまざるべけん哉」と書いていたと伝わる。
静岡市葵区弥勒の弥勒緑地に「由井正雪公之墓趾」の碑が建てられている。もう少し先には安倍川橋がある。今の葵区梅屋町で自刃した正雪の首は安倍川畔に晒されたというが、そのことを伝えているのだろう。
さて、一番上の写真に戻ろう。首塚の右手前の石に刻まれているのは、正雪の辞世である。
秋はたゞ馴れし世にさへもの憂きにながき門出の心とゞむな
正雪が決起しようとした時、暦はすでに秋になっていた。秋だからだろうか。住み慣れているはずのこの世でさえ、つらく思えてくる。だが、これから旅立つ私に思い残すことはない。
物憂い世を自らの行動によって改めようとした正雪公。困窮者を救済しようとした義挙であったと評価することも可能だろう。天下を私する怪しげな陰謀かと思っていたが、公正な社会の実現に向け、革命を起こそうとしていたのである。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。